1996.9.10(火)、京都・同志社神学協議会 開会礼拝説教、
冊子「被災地の一隅から」(1996)所収
(震災から1年8ヶ月、神戸教会牧師18年目、牧会37年、健作さん63歳)
(前を読む)
昨年5月、新聞に発表になった死者名簿で6才以下の子供の氏名を拾ってみました。
年令不明者もあり不完全ですが、147名ありました。
小学生死亡者は169人(『都市崩壊の科学―追跡・阪神大震災 』(朝日文庫) 1996)。
10代を加えると500名近くになるでしょう。
地震後1年以上経って、Kさんが記したご自分の子供さんの死の記録を読みました。
すごく省略しますが、つなぎつなぎで読ませていただきます。
”ものすごい揺れと物音で目が覚め、いったい何が起こったのかわけの分からないまま体を起こすと、お尻の下からドカドカ突き上げる激しい振動で、身動きひとつできない。
しばらくしてガッターンというショックがあって、揺れがおさまった。とりあえず強烈な地震であることだけは分かった。
揺れがおさまってまっ先に考えたのは、階下で寝ている家族のことだった。……でも降りることができない。階段がないのだ。
とりあえず、「オーイ」と大声で叫んでみる。返事がない。……
わずかの薄明かりのなかであたりをみまわすと、二階建て棟割り5戸の長屋の一階部分がすっかりつぶれている。鴨居と敷居がくっついて、庭に面した雨戸とガラス戸は、紙屑のように鴨居と敷居の間にはさまっている。……
パジャマ姿で裸足のまま、素手で壁に穴をあけようと試みた。でも埒があかないので、「何か道具を貸してください。下に閉じこめられているんです」と叫んだ。誰かがスコップを貸してくれたので、それを持って壁を突き破った。……
やっとの思いで穴を開けたが、ちょうどその位置をテレビが塞いでいた。引っ張っても出ない。「喜子は?」という問いに対してはさっきと同じ返事。でも「道夫は?」とは聞かなかった。その時点で、頭が鏡台の下敷きになっていて、その鏡台が、押し上げようとしてもピクリとも動こうとしないことを確認していたから。……”
”どれくらい時間が経っていたのか、この日と翌日の時間が全く思い出せない。
とにかく、最初に道夫が引き出された。
すでに99パーセントはあきらめていたが、出てきた体には外傷も出血もない。
もしかして……と思って、息がないか、口元に頬を寄せてみたが、屋外では風があって分からない。
心臓に手を当ててみたが、鼓動は感じられない。
それでもとにかく病院に運ぼうということになった。
やっと県立病院に着くと、飛び出してきた看護婦さんがすぐに心臓マッサージを始めた。……ということは、まだ可能性があるのか?と思いながら二階の診察室に運ぶと、医師は一目見て、「もう色が変わっているやん」と言いながら、心音と瞳孔を確かめて時計を見た。”
”遺体を病院に残して、まだ3人が生き埋めになっている自宅へ戻った。
国道2号線は車が混み始めている。
それが何時だったか、朝の陽光のなかをスリッパでペタペタ歩きながら、心の中で「道夫が死んだ」「道夫が死んでしもた」とつぶやいていた。
「あの子がもう二度と帰って来ないなんて、本当だろうか?」と思いながら、「道夫が死んだ」「道夫が死んでしもた」と繰り返していた。
繰り返しながら、どこか遠いところで鳴る鐘のように、「主与え、主取り給う」というヨブ記のことばが聞こえてくるのが、なんとも情けなかった。口惜しかった。”
これを書いた方は、日本基督教団のある教会の信徒の方です。
夫と男の子を亡くされ、女の子二人とあとの生活を始められています。
その後、子供の死に関連する文章をいくつか読ませていただきました。
例えば、野田正彰氏。
この方は文化精神医学の専攻で、震災後、岩波新書に『災害救援 』(1995.7)というすぐれた著作があります。最近はサンケイ新聞に連載された文章をまとめられ、『わが街―東灘区森南町の人々』(文藝春秋 1996.7)として出版されました。笠原芳光氏がサンケイに書評を書かれたとうかがいました。
これを読むと78人が死亡した小さな街が回復に向けて立ち上がっていく、その原動力となられた人、曹洞宗の住職・岡本さん一家は一瞬にして8才と4才の子供の死を経験し、また、まちづくり協議会をまとめていく加賀さんのところも4才の子供が圧死します。
そして、子供の死を防げなかった無力感と自責の念が逆にバネになって街の再建に尽くしていく様子がありありとリズムのある文章で記されています。
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