「月刊キリスト」1965年9月号(日本基督教協議会文書事業部)
”日日に聞く聖書のことば”欄掲載
(牧会8年・岩国教会牧師1年目、健作さん32歳)
(注サイト記:一つ一つの記事に署名がないため、健作さん以外の方が執筆した文章が含まれている可能性があります)
13日(月)
テサロニケ人への第一の手紙 2:1-10
わたしたちの福音があなたがたに伝えられたとき、それはことばだけによらず…(5節)
テサロニケ教会の発端を記した使徒行伝17章をみますと、パウロの一行はかの街でユダヤ人の会堂を用いて、三週間にわたって聖書に基づいて論じ、「イエスこそは、キリストである」ことを説明し、論証もしています。おそらく、パウロはできるだけ分かりやすく、論理を通して語った違いありません。しかし一番大切なものは、彼のことばの間に潜んでいて、しかもことばを超えたものによって初めて伝えられたのでしょう。ことばは力を秘めており、その背後には、強い確信に満ちた、イエスに従う彼の実存がありました。
わたしたちは愚かしくも、しばしばことばだけで全てを伝えようとします。が、ことばの限界を知ってこそことばは用いられるものです。坪内逍遥は、シェイクスピアの「I Love you(真夏の夜の夢)」というセリフを、「死んでもいいわ」と訳したといいます。味があるではありませんか。
14日(火)
テサロニケ人への第二の手紙 2:1-12
父がその子に対するように、あなたがたのひとりひとりに対して、…勧め、励まし、また、さとし…(2:12節)
聖書は、一人の人間が、神の前ではかけがえのない尊さを持つことを強調します。九十九匹に対する一匹。罪人、遊女、取税人がイエスの呼びかけに応えることで取りもどす人間としての復権。この意味で人間はすみな兄弟であり平等であるのです。わたしたちはこの一点を交わりの基点として肝に銘じていなければなりません。だが、人間の交わりは抽象的ではありません。親と子、リーダーとフォロワーとの関係で営まれています。親は子に人格としては平等でも、年長者としてふるまわねばなりません。それを通して交わりは生き、人格は具体性をもって尊ばれるのです。
パウロはテサロニケ教会で深い交わりの配慮に生きています。みずから働き、ある時は母のごとく(7節)、ある時は父のごとく相手を見据えて、勧め、励まし、また、さとし。
15日(水)
テサロニケ人への第三の手紙 2:13-16
それを人間の言葉としてでなく、神の言として…そして、この神の言は、信じるあなたがたのうちに働いているのである。(13節)
ボーマンによれば、ギリシャ的思惟では言葉(ロゴス)は、静的・知的な概念で理性に通ずるが、ヘブライ的思惟によれば、言葉(ダーバール)は動的概念で、前に駆り立てるとか行為に通じます。
駅頭で勉学や就職に巣だつわが子に「自重してやりなさいよ」という母のことばが、列車のスピードと共に追いかけて来て、健康に誘惑に自重させるように、ダーバールは人格と結びついて働く概念です。
神のことばとは、イエスの業と生涯のうちに秘められている、生ける神の働きかけであり、そのことの説き明かしを意味します。それを自分の魂のゆるめとして聞きとるとき、神のことばとして受け入れることになるのです。そこをはずしてしまえば、イエスは生きる根拠ではなくなり、説き明かしは人間のことばとなり、お互いの心が内に燃えることもないでしょう。

