神の国の求道- マタイ 7:6-14(1961 釈義)

「聖書の世界」1961年7月号(日本基督教団出版部)

(牧会4年、呉山手教会牧師2年目、健作さん27歳)


神の国の求道
マタイによる福音書 7章6節〜14節

この個所は四つに分けて考えるのが適切です。
(1)聖なるものを犬にやるな(6節)
(2)求めよ、そうすれば与えられるであろう…(7-11節)
(3)何事でも人々からして欲しいと望むことは、人々にもその通りにせよ…(12節)
(4)狭い門からはいれ(13-14節)

 以上いずれの個所も仲々美しい章句です。年輩の方の中には文語で朗読したらもっとすばらしいという方もあると思います。

 さて、今迄私達がこれらのテキスト(聖句)に親しんでいるという場合、その言葉の響きや調子の美しさに魅せられているに過ぎないということはないでしょうか。私たち日本人は、昔から人生の苦しみや人間関係の重荷などにぶつかると、それに立ち向って生きようとはしないで、自然の美しさの中に自分を没入させてしまって、その美しさを観照して一種の救いの境地を体験するということが多かったようです。知らないうちに「山河のさやけき」美しさに親しむようにテキストに接し勝ちですが、それは誤りです。またこれらの個所を厳しい掟や理想として、考えることも誤りです。自分に厳しいのは害がないとして、クリスチャンという全体の名をもってそれを他人に及ぼすと周囲の人がはなはだ迷惑します。

 これらのテキストが「神の国」について語るのは、私たちを真の人間として呼び覚ますお方に関わらしめようとしているのであって、テキストを観照したり、倫理の教科書として抱き込む限りその本来の姿が現われて来ません。

(1)6節 聖なるものを犬にやるな

 聖なるものは犠牲の供物の肉のこと(レビ記 22:14)ですが、イエス自身のことも指しているところがあります(ルカ 4:34)。は他の個所では律法主義者(ピリピ 3:2)や偽りの者(黙示 22:15)を表しています。「豚に真珠」は元来諺です。高価な真珠と不潔を象徴する豚との対比は前の句と同じことを意味しています。ここの犬や豚は聖なるものと無縁なものとされています。それはあたかも先に述べたテキストの勝手な、安易な読み込みが、テキストが本来指示している方と無縁なように拒絶されています。

(2)7〜11節 求めよ、そうすれば与えられるであろう…

 この節は一般に祈り求めることの大切さを述べている(シュニーヴィント)と言われます。しかしそれは形式としての祈祷や、スタイルとしての真剣さが大切であるというのではありません。ディベリウスが「祈りは人間の神に対する関係を表す一定の表現である」と言っているように「聖なるもの」への関係を言っています。

 ルカ福音書では同じ章句の前に、真夜中に友人からパンを求める男の話(ルカ11:5以下)が置かれています。友人であるというので相手を抱き込もうとすることに対する拒絶ですが、その状況では、なおも閉ざされている戸をたたいて、遂に新しい意味で友を見出したという話です。そこへ「求めよそうすれば与えられるであろう」と続いています。ここではっきりすることは、この言葉が一般的真理としていつでも妥当するように理解されてはならないことです。真夜中という状況にいる当人にのみ関わる言葉として受け取られる必要があります。「与えられるであろう」「見出すであろう」「あけてもらえるであろう」は「求めよ」「捜せ」「たたけ」という呼びかけを自分のこととして受けとってそれに応えようとする者にだけ事実となります。その事実は未来形(…であろう)で記されています。つまり、当人がどんなに拒絶にぶつかっていても、また隠された方の前に立たずんでいても、閉ざされた所にいても、なお当人にとっては約束としての事実であることを語っています。そして、この約束としての事実を含んだ「求めよ」という呼びかけは、現実の生活の中に浸りきっていて、孤立してしまっている人間にも、勇気と励ましを与えるものとして響いてきます。

 9節から11節では「父と子」と「天の父と求めて来る者」という類比が語られます。これは約束としての事実を示そうとしているのであって、神の善意を論証しようとしているのではありません。約束への励ましが、ごく日常的な比喩で語られていると考えるべきでしょう。悪い者という語句は聖書の人間理解の根底を示している語句です(マルコ10:18、第一コリント5:13)。

(3)12節 何事でも人々からして欲しいと望むことは、人々にもその通りにせよ… 

 黄金律と言われるこの個所は律法と預言者を成就する方(マタイ5:17)を指し示します。トビアス書(旧約外典の一つ)には「自分に憎いと思われることは他の誰にもするな」(4:15)という消極的な言葉があります。これと類似した考え方は異教世界にもユダヤ人の間にもたくさんあったと言われています。それらに比べると、この個所は積極的な言葉であって、「自分を愛するように、あなたの隣人を愛せよ」(マタイ22:39、マルコ12:31、ロマ13:9、ガラテヤ5:14)と関連した言葉です。先の節と結びつけて考えてみますと、前の個所では「閉ざされた」状況に立たずんでいる者に呼びかけがなされました。そして「開かれるであろう」という約束と励ましが述べられました。ではその呼びかけを受け止めて、それに応えるとはどういうことでしょうか。それは現実の世界で人々からして欲しいと望むような自分、「自分を愛する」ような自分に徹しきって、なお人々に関わりを持つ者となってゆくことです。「人々にも…せよ」は罪を告発する律法(ロマ3:20)ではなくて、律法と預言者を成就された方に私たちを関わらせる契機(モメント)となっているのです。

(4)13〜14節 狭い門からはいれ

 この個所は「生命に至る狭い門」と「滅びに至る広い門」とがあって、その分かれ路で、あれかこれかの選択を迫るものと一般に解釈されています。狭い門とは、十字架(マルコ8:34)、迫害(マタイ5:11-)、試練(ルカ22:28)を指し、自己否定の意味にとられています。ここから、狭い門とは排他的な宗教性を、広い門とは世俗を意味し、前者への努力を強いる言葉として誤解されてきました。

 このテキストの並行個所ルカ13:24では狭い広いという対照がありません。また道という語も出てきません。そして「救われる人は少ない」と関連して記されています。また当時ユダヤ教やキリスト教文書の中には、二つの道という考え方の流れがあった(マックニール)ことを考えると、これに元来、あれかこれかの選択を迫るのが真意ではなくて、「命を…見出すものが少ない」を中心としたテキストとするのが当を得ています。この「少ない」は先に述べた抱き込みを許さない「神の国」の一面を語っていて「狭い門」の抱き込みを断念し、放棄せよということに他なりません。私たちが自分自身になり切ることで、つまり単独者として「神の国」に関わる時、多くの人のために自らを与えられたイエス(マルコ10:45、14:24)をも理解し得るのです。

 さて今迄述べたことをまとめてみると、
(1)「神の国」は私たちの思い込みや固定した理解を拒絶する。
(2)それにもかかわらず「神の国」は約束と励ましをもって呼びかけている。
(3)私たちがそれに応えるのは、自分自身に徹し切ることを通して、人々に関わることである。
(4)「神の国」への関わりは、呼びかけを聞いて応えることであって、呼びかける方を抱き込むことを絶えず放棄する必要がある。

 神の国の求道とは、来たるべき方としてのイエスへの絶えざる関わり方であり、現実の生活の姿勢であって、いわゆる入門ではないのです。

問い
1.抱き込みの関係が、私たちの家庭や教会や職場などにないでしょうか。
2.自分になり切るとはどんな生活の姿勢のことでしょうか。

(岩井健作)


BOX-2. 個人所蔵史料(書籍等)

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