弟子たちの派遣(2012.4 礼拝説教・復活節)

2012.4.15、明治学院教会 礼拝説教(270)、復活節(2)

(明治学院教会主任牧師 健作さん78歳、牧会55年目)

聖書 マタイによる福音書 28章16節-20節

1.マタイ福音書の最後の言葉は

「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」(マタイ 28:20)

との堂々とした宣言である。マタイ福音書の始めには「神は我々と共におられる(インマヌエル)」(マタイ1:23)とある。「神が共におられる」とはマタイの一貫した主張である。しかし、この主張にはマタイ福音書の始めと終わりでは大きく変化している。この福音書は終始ユダヤ人(同邦)への宣教を使命としているが、終わりの所で諸国民(異邦人)に宣教せよと言っている。

2.10章5節・6節では弟子の派遣に際して「異邦人(エスノス)の道に行ってはならない……むしろ、イスラエルの家の失われた羊のところへ行きなさい。」とあるのに、28章19節では「あなたがたは行って、すべての民(エスノス「あらゆる異邦人たち」{岩波訳})をわたしの弟子にしなさい」と言っている。エスノスには幅の広い意味があって、異教徒、異邦人という意味から民族、国民までを表現する。前者は狭い意味、閉ざされた意味合い、後者は広い意味、開かれた意味合いで用いている。シリア地方が立地と言われるマタイの教会の事情があったに違いない。おそらく、マタイの教会のなかで、イスラエル民族中心の伝道から、諸異邦人への伝道へと軸足を変えて行くには、きっと大議論があったに違いない。伝道の方法、教会の地域社会との交流など全て未知の世界に乗り出して行ったと思われる。少なくとも「異邦人」と外から呼んできた締めくくり方が「諸民族」の事を内から考えるあり方に変ったことは大きな出来事だ。マタイの始めの「神が我々と共に」という表現は「ユダヤ教の伝統とは別にイエスの誕生を救い主と信じる我々と共に」という意味であった。しかしその「イエスと共に」の意味が、自分たちの安心や守りという意味であったのなら、そのイエスと共にあることの意味が変化したのだ。ただ題目としてのイエスではなく、復活信仰後、彼が負い続けた十字架の道と共にという所に理解が深まったのだ。

3.28章の「弟子の派遣」の意味は、10章とは異なる。現代の多くの教会は10章の意味で「弟子の派遣」を理解しているのではないか。一般に宗教者が自分の信念に熱心で「伝道」するのは良い。しかしそれは「全ての民」と苦難や課題を共に担うという開かれた心が無ければ、偏狭さをまぬかれえない。マタイはむしろ「開かれた宣教」を示唆してこの福音書を終っている。教会が従来、この福音書の「諸民族」を、いわゆる19世紀の植民地主義といわれた(多民族の事を考えない)キリスト教の勢力拡張のスローガンとして使ってきた事を反省して、多民族・多文化共生の意味に再解釈しなくてはないであろう。

4.今、世界のキリスト教は、「閉ざされたキリスト教」と「開かれたキリスト教」の区別が顕著である。もちろん水と油ではない。そこには問題提起、対話、が絶えず必要である。これは「宗教の世界」だけではなく、あらゆる領域のものの考え方にも言えることではないか。「原発稼働」が本当に「人類の救い」になると考えている人たちは多い。どうやって「脱原発」からの対話をするか、気の遠くなるような話である。神(イエス)は「いつもあなたがたと共にいる」という言葉に活かされてすすみたい。