2012.4.8、明治学院教会 礼拝説教(269)、
復活節第一主日(復活の主日・イースター)
(明治学院教会牧師 健作さん78歳)
聖書 マタイによる福音書 27章62節-28章8節(【番兵、墓を見張る】・【復活する】)
この歳になって牧師として復活節の説教のテキストをマタイから選んだ経験が非常に少ない事に気が付きました。
マルコには「ガリラヤでお会いできるであろう」というイエスの日常性への回帰のメッセージがあります。
ルカには「エマオのキリスト」という食卓でパンを分かち合う絵画的復活のイメージがあります。
ヨハネには失望のマリヤが「振り向くとそこにイエスが」という、振り向くという人生の転換が記されています。みな心に染みる美しい物語です。
ところがマタイはマルコを下敷きにしていながら、全く異なった視点の物語を描きます。イエスの遺体が弟子たちに盗まれて「復活したという話」にならないように、
① ピラトの了解のもとに番兵が見張っていたこと。
② 大きな地震が起きて主の天使が天から近寄り「番兵たちは、恐ろしさのあまり震え上がり、死人のようになった」ということ。
③ ユダヤ人当局は「復活」の事実を打ち消すために番兵を金で買収し「寝ている間の盗難」説を流布させたという話です。
これはユダヤ教の「イエスの死体盗難説」を再反論する論争的伝承をマタイが採用した物語なのです。結論から言えば、兵隊を用いるというような姑息な政治的手段(人間的わざ)を超えた「神の出来事」が「復活なのだ」という強力なメッセージを述べています。
マタイ福音書の神学的主張は、その冒頭に明らかにされたように「インマヌエル。神が共に在る。」(マタイ1:23、イザヤ 7:14・8:8・8:10の信仰)という基調に貫かれています。その主張が復活の場面でも中心的メッセージになっているのです。
「兵隊が死人のようになる」ことは、それが逆説的に「復活の証人」になっているとマタイ福音書の研究者ウルリッヒ・ルツは言っています。
マタイは「見張る・番兵・兵士」と三つの兵隊を表す言葉を用いています。いずれも軍隊の組織の一部分を示す用語です。兵士の大義は組織人として使命に殉じることです。日本の軍隊では「お国のために死ぬ。天皇のために死ぬ」事が至上命令でした。今のアメリカの兵隊は「命令によって動く」という訓練を徹底的にされています。
兵卒というのは行動力であり、組織の手足です。「兵卒がいない」という諺があります。命令系統の将校(口ばかり)が多くて手足がないことをいいます。聖書でも「キリスト・イエスの立派な兵士として、わたしと共に苦しみを忍びなさい」(テモテⅡ 2:3)という使い方をされています。良い意味では、口の人になるな、足の人になれ、とも言えますが、悪い意味では、組織の手足になれ、自分の主体性はどうでもよいという意味にもなります。
いずれにせよイエスの復活は、軍隊の価値体系の闇を破る出来事なのです。
兵隊が悪いわけではありません。兵隊は生活上ならざるを得ない世の闇を担うことを余議なく押し付けられた人達なのです。この人達が「死人のようになる」ことは、逆に「復活」を証ししているのです。
「夜は更け、日は近づいている」(ローマ13:12)とパウロは言っています。現代的な意味で「復活」のいのちは、本当に闇の中を生きざるを得ない人が「死人のようになる」姿などあってはならないのです。だから私たちは「復活」を信じて生きるのです。
樋口健二さん(被爆労働者を40年近く追い続ける報道写真家、著書『これが原発だ、カメラがとらえた被爆者』岩波ジュニア新書)の発言を読んでいてびっくりしました。原発労働者の位置を書いています。
「原発→元請け(東芝、三菱重工、日立の3社は本体を造り、パイプは住友)→下請け(これより未組織労働者)→孫請け→ひ孫請け→親方(人出し業、暴力団を含む)→日雇い労働者(農民、漁民、被差別部落民、元炭鉱労働者、大都市寄せ場、ホームレス等)」
この多重構造が原発を支えているという事実です。最底辺の人達は「死人のようになって」います。だからこそ「脱原発」を逆説的に力づけています。