2012.4.1、明治学院教会(268)受難節 ⑥、棕櫚の主日
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(明治学院教会主任牧師7年目、牧会53年、健作さん78歳)
ヨハネによる福音書 19章1節−16節
1.「そこでピラトはイエスを捕らえ、鞭で打たせた。」(ヨハネ 19:1、新共同訳)
19章の冒頭です。この鞭打ちは、ピラトには十字架の代案であったのですが、群衆の声の叫びが圧倒します。
”「十字架につけろ。十字架につけろ」”(ヨハネ 19:6、新共同訳)。
ヨハネの執筆の時代、”ヨハネ”の教会はユダヤ人から迫害を受けていました。”ヨハネ”の教会自身がユダヤ人からの敵意の対象でした。
ローマ支配に対しては、中立であることを殊更示していました。
だから、ピラトはイエスを助けようとする人間として描かれています。「この男には罪は見いだせない」と(19:6)。
”ピラトは言った。「あなたたちが引き取って、十字架につけるがよい。わたしはこの男に罪を見いだせない。」”(ヨハネ 19:6、新共同訳)
ユダヤ人は「もし、この男を釈放するなら、あなたは皇帝の友ではない。」(12)と脅します。
最終的にピラトはイエスを死刑に引き渡します。
不本意、不決断でイエスを死に追いやった者と、現在の「私、自分」とを重ねての聖書への洞察を前回(3月18日説教「ピラトとは誰か」)はいたしました。
イエスは、ユダヤの宗教的権力者の強固な力とピラトの不決断と保身の生きざまゆえに十字架の死に追われました。
2.しかし、この枠組みの外でイエスへの侮蔑・翻弄が行われます。
兵士の「気晴らし」としての私刑(リンチ)です。
「紫の上着(王への皮肉)、平手で打つ、唾を吐きかける(マタイ27:30)」の暴行です。
兵士は国家の管理下にあり権力の行使の最先端ですが、彼らにリンチがゆだねられてはいません。しかし「気晴らし」としてのリンチが黙認されるのです。
現代で言えば、代用監獄である留置場での警察官僚の脅迫・暴力に類します。
教育現場で教師の目の届かないところでの陰湿な「いじめ」です。
軍隊ではこのような構造暴力は日常茶飯事だと思います。
「気ばらし」についてパスカルは「我々の悲惨を慰めてくれる唯一のものは気ばらしである。とはいえそれこそ我々の悲劇のうちで最大の悲惨がある」(『パンセ』)と言っています。イエスはその苦難にさらされたのです。
3.ピラトは「見よ、この男だ(原文は”人”)」(ヨハネ 19:5)と言います。
”イエスは茨の冠をかぶり、紫の服を着けて出てこられた。ピラトは、「見よ、この男だ」と言った。”(ヨハネ 19:5、新共同訳)
文脈から言えば「こんな哀れな男を死刑にしたいのか、この男だ、見ろ、罪はない、俺には関係ない」といった意味でしょう。
しかし、ピラトはイエスを十字架につけるために、ユダヤ人の脅迫に屈して、政治犯としてイエスを「彼らに引き渡した」(9:16)のです。
”そこで、ピラトは、十字架につけるために、イエスを彼らに引き渡した。こうして彼らはイエスを引き取った。”(ヨハネ 19:16、新共同訳)
しかし「この人を見よ」はもう一方で、悲惨の極みで、その悲惨の本質をくまなく抱え、それに耐え、なお憐れみをもって世界を包むイエスの隠された面を担って伝えられてきました。
バッハは「ヨハネ受難曲」でこのヨハネ19章をバスのパートに歌わせています。
”わが魂よ、痛ましい喜びと重荷にしめつけられた心をもってイエスの御苦しみにこの上ない幸いを見なさい。イエスの身体を刺す茨に天国の扉を開く花が開くのです。イエスの御苦しみから多くの甘い果実が生まれます。だから片時も目をはなさず彼を見つめなさい。”(『ヨハネ受難曲』J.S.Bach)
悲惨と憐れみの二重性を宿した言葉として、ヨハネの文脈が暗示する以上の意味を、受難を黙想する歴史は讃えてきたことに目を注ぎたいと存じます。
由木康氏は「馬槽のなかに」(讃美歌21−280)の作詩で各節の終わりを「この人を見よ」で結びます。
3節までと4節とのバランスに絶妙な信仰が示されています。
(サイト追記)
「馬槽のなかに」由木康作詞(讃美歌21 280番)
1 馬槽のなかに うぶごえあげ、
木工の家に ひととなりて、
貧しきうれい 生くるなやみ、
つぶさになめし この人を見よ。
2 食するひまも うちわすれて、
しいたげられし ひとをたずね、
友なきものの 友となりて、
こころくだきし この人を見よ。
3 すべてのものを あたえしすえ、
死のほかなにも むくいられで、
十字架のうえに あげられつつ、
敵をゆるしし この人を見よ。
4 この人を見よ、この人にぞ、
こよなき愛は あらわれたる、
この人を見よ、この人こそ、
人となりたる 活ける神なれ。
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