2012.3.18、明治学院教会(267)受難節 ④
(明治学院教会牧師7年目、牧会53年、健作さん78歳)
哀歌 2:1-9、ヨハネ18:28
1.「黒のアント(対義語”アントニム”の略)は、白。けれども白のアントは赤。赤のアントは、黒……」。
太宰治はアントを探すことでそのものの実体をつかもうとしました。
「罪と祈り、罪と悔い、罪と告白、罪と……。嗚呼、みなシノニムだ、罪の対語は何だ」(『人間失格』)
と言って苦しみました。
さて、私たちが教会に通い、また聖書を読み、祈りを捧げ、讃美歌を歌い、人々と交わりをもち、奉仕をし、社会活動に参加するのは何のためでしょうか。
その問いを突き詰めてゆくと「神」を知ることで良い人生を掴むことだと言えます。
その「神」は人間の概念に抱きこまれた神ではなく、自分の人生の伴侶として共にいまし、「私」のことを本当に知っている「神」を求めています。
そうして「聖書」は「神」を知ることはイエスを知り、イエスに倣い、イエスに従うことだと教えます。
では「イエスとは誰か」。
この問いは、信徒も求道者も牧師も、「後ろのものを忘れ、前のものに全身を向け」る課題です。(フィリピ 3:13)
そういう意味では「イエスの対義語」が見つかれば、イエスの実体を知る手掛かりになります。
2.「ポンティオ・ピラトの面前で立派な宣言によって証しをなさったキリスト・イエス」(テモテへの手紙一 6:13、新共同訳)という表現があります。
使徒信条にも「ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け」という文言があります。ポンテオ・ピラトはは聖書ではイエスの大義語のような気がします。
「ピラトとは誰か」を知ることで、イエスとの出会いを深くしたいと存じます。
3.さて、今日はヨハネ18章、19章のピラトが登場する箇所の一部を読んでいただきました。ここには、「ピラトが……」と17回も出てきます(ヨハネ以外の共観福音書では、マタイ7回、マルコ7回、ルカ10回)。
ヨハネが断然多いのです。
イエスを殺した力はユダヤ教の権力者たち、最高法院(祭司長、律法学者、支配者による構成)です。しかし、ユダヤはローマ帝国の支配下にあり、死刑の権限がありません。死刑執行権を行使したのはピラト(ローマのユダヤ総督)です。
ユダヤ人の王(メシア)の僭称はユダヤでは死罪に当たります。しかしこれはユダヤ人の宗教問題です。ユダヤ人はピラトの官邸に入りません。過越の食事(ユダヤの最も重要な祭り)の時、ローマ人であるピラトの官邸に入ると汚れるからです(ヨハネ 18:28)。
”人々は、イエスをカイアファのところから総督官邸に連れて行った。明け方であった。しかし、彼らは自分では官邸に入らなかった。汚れないで過越の食事をするためである。”(ヨハネによる福音書 18:28、新共同訳)
ピラトの方が官邸を出たり入ったりします(ヨハネ 18:29, 18:33, 18:38, 19:4, 19:9, 19:13)。植民地権力者が、現地民族を権力(武力)だけでは抑え込めない矛盾が出ています。
イエスの無罪(ローマ法では)を認めながら、ピラトはユダヤ人の要求に屈します。
皇帝の権威を使うユダヤ人の狡猾さがあります(ヨハネ 19:12)。
「一人の囚人を過越に許す慣習」も行使できずに、強盗バラバを釈放させられてしまい、イエスを十字架刑に処してしまいます。優柔不断な男ピラトが浮き彫りにされます。
4.ヨハネのテーマは「真理について証をするために生まれた」イエスを明らかにすることでした。
ピラトはイエスに「真理とは何か」(ヨハネ 18:38)という有名な問いを発します。
ピラトは言った。「真理とは何か。」(ヨハネによる福音書 18:38、新共同訳)
この問いを持ちつつ、力に屈し、保身を保ち、不決断のまま、イエスの処刑の責任を負ってしまったのです。
5.イエス(真理・神)に関しては、従うか否かの決断が問題であって、いわゆる中立はないのです。
「ピラトとは誰か」。それは不決断の故にイエスを殺した人間のことです。
もしかすると、ピラトとは私であって、私がイエスを殺し続けているのかもしれません。
イエスは「真理について証をする」「真理に属する人は皆、私の声を聞く」(ヨハネ 18:37)と述べます。
「わたしが王だとは、あなたが言っていることです。わたしは真理について証しをするために生まれ、そのためにこの世に来た。真理に属する人は皆、わたしの声を聞く。」(ヨハネによる福音書 18:37、新共同訳)
イエスの対義語”アントニム”は「私」であるかもしれません。
イエスの声を「聞きつつ」、ペトロのように躓きながらも、自分の人生を決断で繋いでゆく歩みをする人間でありたいと思います。
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