人間を誇ってはならない(2012 礼拝説教・受難節・震災から1年)

東日本大震災から一年
2012.3.11、明治学院教会(266)受難節 ③

(明治学院教会牧師7年、牧会53年、健作さん78歳)

コリントの信徒への手紙 第一 3章18節-23節

 今日は東日本大地震・大津波・東電福島第一原発事故の複合災害からの一年を迎えて重大な日です。

 価値観の転換が問われている事を、改めて聖書に問い、我々の生き方を省みたいと存じます。

 今日は、パウロのコリントの信徒への手紙の3章18節以下をテキストに取り上げました。この個所の鍵語(キーワード)は「愚かな者になりなさい」(1:18)です。

 もちろんここにはパウロ独特の「この世の価値観」と「神の価値観」との逆説的表現があります。

「十字架の言葉は、滅んで行く者にとっては愚かなものですが、わたしたち救われる者には神の力です。」(1:18)
「神は世の知恵を愚かなものにされた」(1:20)
「神の愚かさは、人よりも賢く、神の弱さは人よりも強い」(1:25)

 この逆説の中心は、パウロが「イエス・キリスト、それも十字架につけられたキリスト以外、何も知るまいと心に決めていたからです。」(2:2)というところにあります。

「神の愚かさ」とは、「イエスの十字架の死」を言っています。

「神が人と共にあるあり方」は「イエスの十字架の死」という出来事を抜きにしては語れないという事です。商業都市コリントを支配していた価値観は「お金」「自分中心」でした。その自分本位に死んでこそ、共に生きることが可能であることを、霊の賜物(2:10)によって成し遂げたのでした。


 ニノミヤ・アキイエさん(社会福祉専門の牧師・宣教師)は、福祉や伝道の仕事は「自分が一度神の前に愚かにならないとできない仕事だ」と言われました。

「共に生きる」ということは「愚かさ」(自分中心に破れること)を経験しないと続かない。

 パウロはこれを「宣教という愚かな手段」(1:21)と表現します。

 宣教は「共に生きる」と言い換えてもよい言葉です。

 共に生きるという生き方はどうしても自分中心の生き方を断念しますから「イエスの十字架の死を負う」という価値観に結び付きます。

 このことを、人間を誇る生き方、つまりストレートな自己実現の生き方から見ると「愚かさ」という逆説で「神の愚かさは人よりも賢く」(1:25)と言い表わします。

 先週、鎌倉で「原発に頼らない社会を実現させるには ーポスト3.11を生きるためにー」という講演会がありました。

 田中優さん(環境運動家)は原発に頼らなくても、今の日本で十分社会が成り立つことを実証される話をされました。いわば「お金の価値観」への挑戦です。

 1月に横浜で行われた「脱原発世界会議」で福島の小学生・富塚悠吏君(10歳)が識者に交じって壇上から語った言葉が大変印象的でした。

「国の偉い人たちに聞きたい。大切なものは僕たち子供の命ですか、それともお金ですか」。

 他の表現でいえば「お金」は「人間を誇る」と同義です。ところが「子供の命」は、一人では成り立ちません。親がいて友達がいなければ子供は育ちません。「共に生きる」という価値観です。「人間を誇る」という生き方は、人を蹴落としても成り立つ生き方、他の言葉でいえば「市場至上主義」「競争原理主義」「金権主義」というものです。

 3月11日は、価値観の転換の日として覚える日。

 特に、聖書の価値観に立つ者は「イエスの十字架の死」が示している「共に生きる」あり方、「十字架の死に結び付いて」他者と共に生きる生き方を深く身に刻む日であります。

 死者・行方不明者の存在は「十字架の死」の不条理を象徴しています。その死は「十字架につけられ給ひしままなるイエス・キリスト」(ガラ3:1)と二重写しです。

この礼拝から10日間の健作さん

2012年3月13日 北村慈郎牧師を支援する会(紅葉坂教会)

16日 川和保育園礼拝

17日 YMCAとつか保育園卒園式、鎌倉に震災銭湯を作る会世話人会

18日 明治学院教会 受難節第四主日 礼拝説教「ピラトとは誰か」、教会総会

19日 沖縄を学ぶ会(鎌倉恩寵教会)

20日 神奈川教区平和フェスタ(神奈川教会)

21日 レモン家庭集会、午後 湘南とつかYMCA聖書を学ぶ会

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