バルティマイという盲人 – 人格的出来事は名を伴なう(2012 マルコ ③)

2012.3.7、湘南とつかYMCA “やさしく学ぶ聖書の集い”
「現代社会に生きる聖書の言葉」第31回、「新約聖書マルコ福音書の言葉から」③

(明治学院教会牧師 健作さん78歳)

マルコ福音書 10章46節-52節(参考 マタイ20:30、ルカ18:35)

 最初の三つの福音書を「共観福音書」と言うことは前回申し上げました。マルコ福音書が一番初めに成立して、マタイ・ルカは、それを下敷きにして、自分なりの「福音書」を書いたので、共通の観点があるということは当然です。でも、時代的には、マタイ・ルカの方が後です。ということは、初期キリスト教の成立からいうと、教会の考え方が整ってきて、それぞれの視点で、マルコのテキストに、加筆・修正・削除などが行われたということです。ここをよく比べて見ようと、研究者たちが作ったのが、福音書を並べた書物です。外国では1920年代にはそのような書物が出版されていました。日本でこの作業を手掛けた人は内村鑑三の弟子で、塚本虎二です。塚本虎二著『福音書異同一覧』(1951年 羽田書店)。これは大変貴重なものでした。現在は監修:荒井献・川島貞雄『四福音書対観点表―ギリシャ語・日本語版』(日本基督教団出版局 2000年)というものが出ています。聖書を専門に読む、研究者や教職者、さらに一般読者にとっても大変重宝な書物です。

 一般の人が、聖書を読むとき、福音書の違いを知って読むように工夫された翻訳として『新共同訳』(1987年)が出版されました。福音書の各段落に、括弧”()”に入れて、その箇所が他の福音書ではどこにあるか(並行箇所)が記されています。

 聖書はどのように読んでも自由です。「逐語霊感説」は「聖書は一字一句神の霊感によって書かれたものだ」という解釈を許さない読み方で、今でもそのように読んでいる保守的キリスト教があります。アメリカに多いようです。また教会の教義に照らして解釈する読み方があります。「教義的解釈」です。その場合は、福音書の異同を比べるということはあまり必要ではありません。

 もうひとつは聖書を歴史的に読む読み方です。その場合、聖書の「神の言葉」としての性格はどうなるのか、という疑問があります。それは、聖書を残した人々(当時の教会)が、その時代にどのように「神の言葉」(人間学的・文化的に言えば、人間に対する「他者《神》」の意志に向き合うこと)をどのように聴き取っていたか、を含めて読む事が大事だという視点を持った読み方です。このような読み方をするために『福音書対観表』があるわけですが、日本では意外と新しいことなのです。

 前置きが長くなりましたが、今日のお話は、イエスがエリコの町を出てゆかれる時、バルテマイという盲人の物乞いが、イエスだと知って「ダビデの子イエスよ、私を憐れんで下さい」と言ったら(イエスを”ダビデの子《救い主》”と呼ぶのは、危険思想でした)人々は彼を叱って黙らせようとしたのです、でもイエスはその叫びを聞き、彼の目が見えるようになりたいという願いに「行きなさい。あなたの信仰があなたを救った」と声をかけます。そこで盲人は見えるようになったというのです。

 マタイもルカも「バルティマイ」という名をただ「盲人」にしてしまいました。人は一人の人格として、かけがえのない名をもって生きています。マタイはイエスが「触って」直したというイエスの奇跡の物語に改変しています。名を大切にして、物語を伝える初心は大事なことです。

 土井敏那監督の『沈黙を破る』という映画を見ました。イスラエルの退役兵士が、パレスチナ占領の残虐さを政府や世論の圧力に抗して語るのです。一人一人の名が出ています。命がけの行為を名を持って描いているところに迫力がありました。

聖書の集いインデックス

飼い主のいない羊のような有様 – 人を力づけるということ(2012 マルコ ④)