しつように頼めば(2012 礼拝説教)

2012.3.4 ルカ福音書 11:5-9、明治学院教会 礼拝説教(265)

明治学院教会牧師 78歳

1.まず、聖書のルカ11章を開けて下さい。「祈るときには」という見出しがついています。この個所は、著者ルカが、自分の教会の読者に「祈り」のことを教えている箇所です。

2.ルカは二つの事を取り上げています。

①「熱心に祈れ」という事。人間の側からの神様への関係。

②「天の父は求めるものに、聖霊を与えて下さる」(13節)という事。「聖霊」という難しい言葉に戸惑う方は「神様からの人間への関係」と一応理解しておいて下さい。

 ルカは両方とも大切だと言っています。10節では「だれでも、求めるものは受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる。」と人間の側の、努力、熱心さ、の大事なことを。11節と12節では「魚を求める自分の子供に蛇を与える父親があるだろうか」という話をして、不完全な人間の父でさえ子供への愛を持つとすれば、まして「天の父においておや」と、神の愛を比喩で語り、神の側の確かさを強調します。

 ルカはこの両面を同時に語っているのですが、譬えの引用では「熱心」の方に舵を切りました。祈りに不熱心な「ルカの教会の人々」を前にして焦っているのだと思います。

3.ルカは「真夜中に助けを求められた友人の話」というイエスの譬え話を引用します。

 このお話はパレスチナの村の様子を生き生きと伝えています。パンは主婦が家族のために焼くのです。3個のパンが一食です。客をもてなすのはオリエント社会の義務でした。みんなぎりぎりの生活でしたから、いつも客の分の余裕があるとは限りません。しかし、村のあそこの家に行けばパンがあるということは分かっていました。だから「パンを三つ貸してください」と友人の所に行ったのです。今の聖書学者たちは、本来のお話は7節迄で終わっている、と言っています。

「あなた方のうちに誰か友人がいて、真夜中にその人のところに行って、『私を突然訪ねてきた旅人のために必要なパンを貸してくれ』と頼んだとすると、この友人は『迷惑だ』と言って君の願いを断ったりするだろうか?」となります。

 7節の終わりは修辞疑問文で、そこには「否、誰もがそのような願いをむげに断ったりはしない!」という論旨になります。

 ルカは8節を付け加えました。「しかし、言っておく。その人は、友達だからということでは起きて何かを与えることはなくても、しつように頼めば、起きて来て、必要なものは何でも与えるであろう。」と「熱心に求める」人間の努力に論点を移してしまいました。

 もともとは、貧しくても「パンを融通するのは当たり前のこと」という、人間の経験のなかに「神の側の真実」が隠されている、そこに気がつきなさいよ、というお話だったのです。

「乞われたら断れない」という「助け合って生きる」のは「神の恵みの現実」なのです。その神の恵みの現実が、民衆の村の生活に豊かにあったのです。多くの人がそれを経験していたのです。「共に生かされている恵みの問題」です。そこに気がつくことが大切です。ルカは、そこを「熱心の」問題にしてしまいました。

4.中国の古い教えに孟子の「性善説」と荀子の「性悪説」があるように、聖書にも神の息吹を吹きかけられて生きる「創造の秩序の人間観」と「罪の桎梏にあえぐ、罪の人間観」があります。

 罪からの救いをイエス・キリストの十字架の贖いの一点に集中してみる「救済観」もありますが、それは聖書では一つの見方です。聖書は色々な語り方、そしていろいろな「救い」を豊かに宿した書物です。

5.「しつように頼めば」という物事の突破の仕方は確かにあります。しかし「祈り」をその面だけに方向づけると、息苦しくなります。ルカも迷ったのでしょう。最後は「聖霊を賜る神」で締めくくりました。

 ローマの信徒への手紙 8章26節に「“霊”も弱い私たちを助けてくださいます。わたしたちはどう祈るべきかを知りませんが、“霊”自らが、言葉に表せないうめきをもって執り成してくださるからです。」と「祈り」に先行する“霊”の執り成しの働きがある事を指摘しています。

「“霊”の執り成し」に心を留めたいと思います。「しつように頼んで」いるのは人間の側ではなくて、見えない神の“霊”の働きなのだ、という事に気が付きたいと思います。

「真夜中でも村(神の支配し給う所)にはパンがある」。これは神の恵みです。と同時に、私たちが気がつかないだけで、私たちが生かされている生活領域に隠されている宝を発見してゆきたいと存じます。