ラザロという貧しい人が…いた。 – 身近な大切な人

「現代社会に生きる聖書の言葉」
湘南とつかYMCA ”やさしく学ぶ聖書の集い”

第62回「新約聖書 イエスのたとえ話」⑤
ルカ福音書 16章19節-31節

19 「ある金持ちがいた。いつも紫の衣や柔らかい麻布を着て、毎日ぜいたくに遊び暮らしていた。20 この金持ちの門前に、ラザロというできものだらけの貧しい人が横たわり、21 その食卓から落ちる物で腹を満たしたいものだと思っていた。犬もやって来ては、そのできものをなめた。22 やがて、この貧しい人は死んで、天使たちによって宴席にいるアプラハムのすぐそばに連れて行かれた。金持ちも死んで葬られた。23 そして、金持ちは陰府(よみ)でさいなまれながら目を上げると宴席でアブラハムとそのすぐそばにいるラザロとが、はるかかなたに見えた。24 そこで、大声で言った。『父アプラハムよ、わたしを憐れんでください。ラザロをよこして、指先を水に浸し、わたしの舌を冷やさせてください。わたしはこの炎の中でもだえ苦しんでいます。』
25 しかし、アプラハムは言った。『子よ、思い出してみるがよい。お前は生きている間に良いものをもらっていたが、ラザロは反対に悪いものをもらっていた。今は、ここで彼は慰められ、お前はもだえ苦しむのだ。26 そればかりか、わたしたちとお前たちの間には大きな淵があって、ここからお前たちの方へ渡ろうとしてもできないし、そこからわたしたちの方へ越えて来ることもできない。』

27 金持ちは言った。『父よ、ではお願いです。わたしの父親の家にラザロを遣わしてください。28 わたしには兄弟が五人います。あの者たちまで、こんな苦しい場所に来ることのないように、よく言い聞かせてください。29 しかし、アプラハムは言った。『お前の兄弟たちにはモーセと預言者がいる。彼らに耳を傾けるがよい。』 30 金持ちは言った。『いいえ、父アプラハムよ、もし、死んだ者の中からだれかが兄弟のところに行ってやれば、悔い改めるでしょう。』 31 アブラハムは言った。『もし、モーセと預言者に耳を傾けないのなら、たとえ死者の中から生き返る者があっても、その言うことを聞き入れはしないだろう。』」

新約聖書 ルカ福音書 16:18-31

この話は、新約聖書ではルカ福音書にだけ出てくるお話である。19節から21節まで、お話の冒頭部分を、まず読んで素朴に何を感じるであろうか。この時代も貧富の差が露骨だったのだ、と思った。多分これは事実だったであろう。それをお話として記録するルカ福音書の著者は一体何を意図していたのであろうか。

この格差の現実を、知ってほしい、というジャーナリズム精神があったかも知れない。とすると読者はこの現実の外にいる、それ相応の暮らしを維持している経済層の人達であろう。読者「ルカの教会」と重ねつつ、現代日本で聖書を読む層の我々は、この冒頭部分からまず、痛みを持って現代世界の貧富格差を受け止めざるを得ない(「生きたい。人間らしく。30-40代増える貧困相談」7/17 東京新聞 第一面、『ルポ 貧困大国アメリカⅡ』(堤未果 岩波新書)など、貧富の現実に目をとめたい)。この譬はイエスの金持ちに対する「単純直裁な反発」 (田川『イエスという男』 P. 276) を示しているという。

「ラザロ」という名前(エレアザル【神授け給う】ありふれた名)が語られている。他方金持ち(伝説ではニネウェ)の名は伝えられない。物語は明らかに貧乏人に記憶と光が当てられている。

この話は2部(19-26,27-31)から成り、この世の価値観と死後の価値観との転倒が語られる。これは多分当時の通俗的物語が土台にあったと考えられる。来世を否定するサドカイ派(当時ユダヤ教では律法順守のパリサイ派に対抗して神殿・祭儀中心の現世主義の派閥)との論争が主に意識されている。アブラハムの子(13:16)という考え方はユダヤ人に共通するものであった。「天国の祝宴」と「陰府(よみ)の苦しみ」への認識が、逆に「現世」をどう生きるかを考えさせる。

金持ちの、苦悩からの脱却の道は閉ざされている。金持ちには「お前は生きている間に良いものをもらっていたが、ラザロは反対に悪いものをもらっていた」(25)だからお前は苦しむし、ラザロは天で慰められる。これは余りにも古代人の通俗的因果応報の思想でありイエスの思想ではないであろう。

「地獄」の苦しみに陥らないように死者の世界からのラザロのメッセージが有効であるという考え方も拒否される。現在、語られている「モーセ(律法)と預言に耳を傾けないなら」(16:31) 他に、伝達の通路はない、というのが結論である。関係性とはそのようなものである。

ここでは「モーセと預言」は象徴的な意味で「神の語りかけ」と解釈されても良い。いわば、もっと翻訳してしまえば、「金持ち」の一味にとっての「他者性」を持つはずの存在である。「モーセと律法」は形式的に当時の宗教的儀礼やお勤め(律法の学習)をいっているのではなく、自分が生きているところでの他者との関係を意味している。ラザロの存在は、金持ちにとって最も身近な他者であった。そこからの問題を提起している存在であった。「食卓から落ちるもので腹を満たしたいものだと思っていた」(16:21)と無言の語りかけをしている。

身近な存在から関係性の大事さを提示される以外に、人間は関係存在では有り得ないことをこの譬は語っている。金持ちは、ラザロを通して、ほんとうに大事な関係(神との関係、人間との関係)を知るべきであったのだ。

現代の我々も、人間であること、関係存在としての人間の本来性を見失うことがあってはならない。一緒に生きているという関係存在を見失うことが、聖書で言う「罪」なのである。ほんとうに大事な存在が見えていないということがないように、生きてゆきたい。「ラザロ」という名前に代表される、大事な存在を見落としてはならない。