そこ(ガリラヤ)でお目にかかれる – マルコにはいわゆる復活物語がない(2012 聖書の集い・マルコ ⑤)

2012.4.18、湘南とつかYMCA “やさしく学ぶ聖書の集い”
「現代社会に生きる聖書の言葉」第33回、「新約聖書マルコ福音書の言葉から」⑤

(明治学院教会牧師 健作さん78歳)

マルコ福音書 16章1節-9節(参考:マタイ 28:1-8、ルカ 24:1-12、ヨハネ 20:1-10)

 新約聖書の福音書には、イエスが十字架につけられて処刑された「受難物語」に続いて「復活」して弟子たちに姿を現されたという「復活物語」が収録されています。

 ルカ福音書では24章に「エマオのキリスト」というレンブラントの有名な絵になった物語があります。

(サイト記)田中忠雄画伯の「エマオへの道」(1979)

(サイト記)美術館のサイトです。画像をクリックするとレンブラントの絵が拡大表示されます。レンブラントは「エマオ」「キリストを囲む食卓」をテーマにたくさん描いていますが、以下はそのほんの一部です。有名なのは下の3番目だと思います。

Pilgrims at Emmaus 1629、ルーブル美術館(外部リンク)
The Supper at Emmaus 1648、ルーブル美術館(外部リンク)
Pilgrims at Emmaus or The Supper at Emmaus 1648、ルーブル美術館(外部リンク)
The Disciples at Emmaus 1655、ルーブル美術館(外部リンク)

 さらに、弟子たちに現れて「亡霊」だと疑う者たちに「焼き魚」を食べたという話が続いて語られています。

(サイト記:次のイラストは明治学院教会時代の健作さん手作りカード)

 さらに「天にあげられる物語」が語られます。

 ヨハネ福音書では20章に「空虚な墓」を調べる弟子たちの話とマグダラのマリヤに現れた話が載せられています。園丁だと思って話していたマリヤが振り向くと実はそれがイエスだったという興味深い話です。

 さらに有名な「疑うトマス」に

「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹にいれなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい」(ヨハネ 20:27 新共同訳)

 というイエスの言葉を入れています。

 そして7人の弟子に現れた話。「私の羊の世話をしなさい」と弟子をその使命へと派遣する物語が語られます。

 マタイ福音書は、繰り返し語っているように福音書の記述の下敷きにマルコを用いているので、筋書きにはマルコ16章が出てきて、文言も繰り返しでてきます。しかし、マルコとは全く違う物語になっています。

 イエスの遺体が、弟子たちに盗まれることで「イエスの復活」がでっちあげられた物語であるというユダヤ教側の論拠を打ち消す意図の物語になっています。いずれにせよ「復活したイエス」は弟子たちの目の前に現れます。

 ところが、マルコ福音書は「空虚な墓」の物語までが語られます。本来のマルコは16章8節で終わっているというのが定説です。後の時代、聖書を編集した人達が余りにも唐突なマルコの終わり方に配慮して「マグダラのマリヤに現れる」(マルコ16:9-11)、「二人の弟子に現れる」(16:12-13)、「弟子たちを派遣する」(16:14-18)、「天に上げられる」(16:19-20)物語を付け加えました。さらに別な「結び」をその後の編集者が付け加えています。

 実際は7節の「ガリラヤでお目にかかれる」ということと、8節の

「婦人たちは墓を出て逃げ去った。……恐ろしかったからである」(マルコ 16:8)

 の二つの事柄で終わっています。この唐突さは何かの「事故」で途切れたのではなく、著者の意図であろうというのが最近のマルコ研究の通説です。

 ここからマルコの「復活理解」が見えてきます。

 弟子たちにとってイエスは十字架に架けられて死んだことがずーっと事実で在り続けるということです。しかし、イエスが活動したガリラヤに行ってみると、イエスの振る舞い、言葉は過去のものではなく、現在の弟子たちの生を励まし、力になり、イエスが弟子たちと共に在る存在であることも事実として実感できるのです。

 この「事実」というのは客観的事実という意味ではなくて、生きている実存的事実「いのちの現実」という意味です。

 その意味では「復活」は「蘇生」ではありません。人間学的に言えば「十字架(犠牲の死、無意味な死)の有意義性」を現わしている(R・ブルトマン)と言われます。文学的に言えば「死んでいることも本当」「生きていることも本当」と生に二重性を言い表したものだという。

 この理解を自分の小説の方法論にしているのが椎名麟三です。復活とは「日常性への回帰である」と理解されています。その日常性の最後が「死」ではない、そのような日常性です。

 マルコはこの意味で「ガリラヤでお会いできるであろう」というメッセージを持ってこの福音書を終わっています。

ガリラヤでお会いできるであろう

 我々の日常性のいのちとは、虚無の日常性ではなくて、十字架の死を媒介してなお営まれる日常性である、というメッセージです。ここのところをマルコから学びたいと思います。

聖書の集いインデックス

光は闇の中に輝いている。
- 象徴的表現でイエスを言い表す書物(2012 ヨハネ ①)