2012.4.22、 明治学院教会(271)復活節 ③
(配布「聴き手のために」はPDFで掲載)
(明治学院教会牧師、健作さん78歳)
ルツ 2:10-13 、ヨハネの手紙第一 1:1-4
1.今日から、何回かヨハネの第一の手紙を学びます。
新約聖書の中では「公同書簡(ヤコブ、ペトロ Ⅰ・Ⅱ、ヨハネの手紙 Ⅰ・Ⅱ・Ⅲ、ユダの手紙、の計7書簡)」と集合的名称で呼ばれている(AD197ごろから)ものの一つです。
特定の宛先はありません。普遍的に妥当(公同)する信仰の証言が含まれているので「公同書簡」と呼ばれています。
ヨハネの第一の手紙は、キリスト教徒として相応しい生活を送るようにという勧告と、教会の中に現れた「異端者」に対抗する指針を内容としています。
異端者は「受肉の事実性《イエスの歴史性》」を否定し、キリスト者がなおも罪を犯すかもしれない可能性をも否定します(「仮現論《イエスは先在の神の子が仮の姿をとってこの世に来たものとみなす》」。当時の「グノーシス《覚知主義》」の流れの影響下にある考え方で、初期キリスト教史上初めて信仰者の生活における罪について論じたものです(ヨハネ第一 3:6-9)。罪を犯したときは罪の告白によって赦しの体験が与えられる(1:7、2:2、5:14-16)。また「ヨハネ福音書」と用語と思想が近いので同一サークルに属する者が著者であったとされ「ヨハネ」の名が付けられています。執筆場所はシリアかエフェソの周辺で、執筆年代は紀元90-110年頃です。
2.ヨハネの第一の手紙 1章1-4節の書き出しは、ヨハネ福音書の序文と似ています。ここの中心命題(ブルトマンによる)は3節の
「わたしたちは……あなたがたにも伝える……」(ヨハネ第一 1:2、新共同訳)
という文章です。伝えられる内容にはヨハネ福音書のキーワード(鍵語)が出てきます。「言(ロゴス)」「命」「証」「御父」「御子」です。
この手紙は、いわゆる「異端」を論駁しているのですが、相手を「あなたがた」と呼んでいるところが注目すべき所です。異端ですから、白黒をはっきりさせて、切って捨てるというのが普通ですが、そのような外科手術的なやり方ではないのです。
「交わりをもつために」(3節)対話をし、論議をしようというのです。もちろんはっきりすべきところはきつい言い方をしています。
「偽り者とは、イエスがメシヤであることを否定する者でなくて、だれでありましょう。御父と御子を認めない者、これこそ反キリストです」(ヨハネ第一 2:22、新共同訳)
しかし、「交わりをもつために」共通基盤を「わたしたちの交わりは御父と御子イエス・キリストとの交わりです」(1:3)と言います。
ヨハネの手紙ー 1:1-4(新共同訳、見出し「命の言」) 初めからあったもの、わたしたちが聞いたもの、目で見たもの、よく見て、手で触れたものを伝えます。すなわち、命の言について。 ー この命は現れました。御父と共にあったが、わたしたちに現れたこの永遠の命を、わたしたちは見て、あなたがたにも証しし、伝えるのです。ー わたしたちが見、また聞いたことを、あなたがたにも伝えるのは、あなたがたもわたしたちとの交わりを持つようになるためです。わたしたちの交わりは、御父と御子イエス・キリストとの交わりです。 わたしたちがこれらのことを書くのは、わたしたちの喜びが満ちあふれるようになるためです。
論敵「あなたがた」は決して「反キリスト」ではありません。イエス理解の論点の置き方の違いです。イエスを
「初めからあったもの、わたしたちが聞いたもの、目で見たもの、よく見て、手で触れたもの」(1:1、現在完了形の動詞)と捉えるのは「わたしたち」です。
「あなたがた」はイエスを仮現論に従って抽象的、観念的に捉えるのです。
だが「信仰とは、歴史の中で具体的に捕らえることができるような生活として現れるもので、きわめて現実的なものであり、実証性をもっている」(飯清・元霊南坂教会牧師)
信仰に関しては現実と観念がひっくり返しになってはならないのです。現実とは体験が共有化され経験となって交わりの基盤となるものです。
観念は同じであれば観念集団が出来、交わりは生まれません。交わりは、個別に違う経験が基盤になって生まれるものです。教会はイエス(・キリスト)との出会いの多様性があるからこそ「教会」なのです。個人の経験の違いが「証し」として語り合われ、聞かれるところに、教会の豊かさがありましょう。
meigaku_iwai_271