切なる叫び ー2(2004 兵庫教会・礼拝説教)

切なる叫び(2)

2004年9月5日 兵庫教会礼拝説教
2005年版『地の基震い動く時』所収

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マルコ福音書 10章46節-52節

上着を脱ぎ捨てて

 50節に「彼は上着を脱ぎ捨てて」とあります。上着とはなんでしょうか。これは彼が道端で物乞いをするとき、広げる上着です。彼は図らずも、イエスに招かれて、人々に物乞いをせざるを得なかった生活、依存的生活形態から脱出したのです。ここに奇跡が起こっています。奇跡は、自分の内側から出る力では起こり得ないことです。上着を広げれば、それは屈辱的ではあるが、人々の同情に頼って生活できたのです。しかし、思わず上着を脱ぎ捨てました。これは、本当に喜びのあまり、思わず脱ぎ捨てたのです。

 「彼を呼べ」という招きに、応答の関係が生まれます。「見えること」への切なる願いを持ったのは彼です。「見えること」は他の言葉で言い換えれば、自立して生きていくことでしょう。今までは、他人の憐れみの中で物乞いをすれば、それ相応に生きられました。彼が上着を脱ぎ捨てたのは、イエスの招きに応えて、思わず彼がとった行動です。彼の行動には違いないのですが、招きによって引き出された行動です。私たちでもそういうことはありませんか。招かれれば応える力を与えられている、ということは私たちの日常にもあります。

 「上着を脱ぎ捨てた」というのが、彼の行為であって彼の行為であって彼の行為ではない、というところが奇跡なのです。現代人は「奇跡」を不思議なことと考えますが、聖書は現代人の思うような「不思議」を言っているわけではありません。不思議は英語でミラクルと申しますが、聖書はミラクルを言っているのではなくて、「驚くべきこと」を言っているのです。ワンダーを伝えているのが「奇跡」です。

 イエスの強い「彼を、あの一人を、呼べ」という意志によって引き起こされた、彼の応答が「奇跡」なのです。思わず、彼は上着を脱ぎ捨てたのです。それは、「ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんでください」(10:47)と叫ぶ以外に、自己表現のなすべき術を知らない人と、イエスとの出会いの瞬間です。そしてそれが、図らずも彼の信仰告白なのです。人々は彼を「叱りつけて黙らせようとした」とあります。しかし彼は叫び続けました。「わたしを憐れんでください」という切なる願いを、叫び続けたのです。

 マルコ福音書では、信仰告白といえば、立派な信仰告白をしたのはペテロです。「あなたはメシアです」(8:29)と告白しました。しかし、マルコはその告白の物語を手放しで評価していません。むしろ否定的な扱いをしています。メシアを告白するペテロが受難物語の中で挫折していくのです。ペテロにはイエスに従っているという自負がありました。ここが災いしているのです。

 バルティマイにはその自負がありませんでした。ひたすらイエスの招きに応えることが彼の全てでした。現代の教会がいつも立ち返る原点がそこには示されています。信仰には「自負」があってはならないのです。「自負」を辞書で引いてみますと、「自分の才能や仕事に自信を持ち誇りに思うこと、その心」とあります。世の中を生きていくためには自負は必要です。自分に自信をもつことは必要です。しかし、信仰には「自負」はいらないのです。

 実はペテロはこれをもってしまった。だから、後々イエスからお叱りと戒めを受けました。マルコは、このことを伝えるために、分水嶺に、このバルティマイの物語をもってきたと思われます。

 イエスは「何をしてほしいのか」と盲人の切なる叫びを聞きます。彼は明確な救いへの意志をもっています。「目が見えるようになりたい」、これほど切実な意志が他にあるでしょうか。イエスは「行きなさい。あなたの信仰があなたを救った」と言われます。注意深く読むと「救った」は現在完了形です。イエスの言葉によって、彼の「見えるようになりたい」という意志、これを他律的意志としましょう。しかしそれは、自分で生きるのだという自律的意志にすでに変えられているのです。現在完了的出来事なのです。

 「憐れんでください」は、頼りを求める他律的意志です。しかし、上着を脱ぎ捨てた時に、「奇跡」はすでに起こっていたのです。「行け」は、押し出す言葉であると同時に、イエスの後をたどることへの招きでもありました。「従う」という自律的な意志が彼を押し出しているのです。「行け」とは、それを押し出す励ましです。イエスは人を、寄りかからせるようには導かれない。自分で歩くように導かれます。

 「重要なことは、あなたのうちに何があるかということではない。重要なことは、神があなたを肯定しておられるということだ」(イェルク・ツィンク)。

 人生の絶望にも関わらず、彼の切なる意志を「あなたの信仰」として受け入れられたことを受け止めて、自分で歩くように励ましを受け、歩み出したのがバルティマイです。私たちも、そのように歩み始めることができる、というのが救いの知らせです。

 私はかつて、この聖書の箇所で説教をしたことがあります。その頃、教会に新しく来られた方がその礼拝に出ておられました。1組のご夫妻でした。もう中年を遥かに超えられた年齢なのに、手を繋いで教会に来られたので、仲の良いご夫妻なのかな、と勘違いしたのですが、気がついたら、奥様のほうが、目がご不自由だったのです。お話をお聞きしてみると、その時から3年前に急に失明して、それはなんら眼科的な疾患ではなくて、心因性のものだとの話で、やがては回復するという希望に託して、教会をインターネットで探し当てて来られました。

 私たちは、具体的には、何もして差し上げることはできなかったのですが、「具体的に目が見えることが、私たちの願いであるが、視力が失われていることを通して、実はイエスと出会い、他律的に求めるものが救いではなくて、今を自律的に歩むことが、神と出会い、イエスと出会い、『行きなさい』との言葉に押し出されて生きることなのだ、ということを知らされた」とおっしゃって、しばらくして、キリスト教のことは何もわからないが、イエスに従って生きようと決心され、お二人して洗礼をお受けになりました。

 その方が教会の交わりに加わってから、少しずつ、教会の交わりに変化が起こりました。視力障害の方には、こちらから声をかけないと交わりがもてません。挨拶の声をかけるにも、いつも、その方の立場に一度なってみることです。マルコが、バルティマイの話を分水嶺にしたように、「見えることを切に求める」一人の人で、イエスは我々を、人の心を思う人間へと呼び覚ましておられるのだ、ということを覚えました。

 教会に古くから来ていると、我々は救いのことがわかっていると思いがちです。そのような自負すら脱ぎ捨てて、先立つイエスに従って道を進んでいきたい。実は、それから何年か経って、視力障害を起こした方から、「私の作ったクリスマスカードです」と電子メールのメッセージが入っていました。視力が少しずつ回復したと言われました。それは回復ではなく、神からの新しい賜物でした。自律的生き方の広がりが課題だ、と言っておられました。
 雑念の多い世の中ですが、「わたしを憐れんでください」との祈りをもって、過ごしたいと存じます。

 祈ります。

 神さま、兵庫教会はたくさんの課題をあなたから与えられています。切なる叫びに応えて、いく先へと押し出してくださる力をお与えください。教会につながる一人一人を守ってください。主イエスのみ名によって。アーメン

経験の中の恵み(2005 兵庫教会・説教)