教会と聖書 − あとがきに代えて、思いつくままに

『土の器に盛られたいのちの言葉 − 聖書をどう読むか − 神戸教会夏期特別集会記録』所収 (2003.3.1発行、日本基督教団 神戸教会 伝道委員会 作業・編集) 

 この度は、神戸教会伝道部の皆さんの熱意と努力によって「夏期特別集会の記録」が纏められたことは大きな喜びです。この企画の発案の時、委員長だった藤村洋兄の祈りとその労に深く感謝いたします。私は2002年3月をもって神戸教会を退任しましたので、在任時代の教会の歩みは、歴史の評価に委ねるべきことですが、そのための資料としても、このような記録が残ることは、これからの神戸教会の豊かさに繋がることだと思います。またそれは神戸教会だけではなく、他の教会にとっても大いに参考になるに違いないと信じています。あとがきを兼ねた私なりの文章の依頼を受けたのは6月頃であったと思います。少なくとも夏の終わりには務めを果たさねばならないところ、引っ越しを含め新しい生活が軌道に乗るまでに思わぬ雑多な用事や先を急ぐ集会や原稿に四苦八苦していて、秋まで引きずってしまいました。私の怠慢をも含めて反省し深くお詫びをいたします。

 少々個人的なことで恐縮ですが、このような機会に、自分がこれまでどのように聖書を読んできたのかを振り返ってみることにしました。私は牧師の家庭に育って来ましたが、子供の頃、家庭で家庭礼拝のような形で聖書を読んだという記憶はあまりなく、聖書が親の権威と重なって重苦しい雰囲気に包まれるということはかつてありませんでした。聖書の記憶では、小学校にあがる以前から参加していた日曜学校で聞いた聖書のお話が甦ってきます。教会の伝道集会の講師で来られた岩村清四郎牧師(当時大森めぐみ教会)が子供のために話したヨセフ物語などは今も鮮明に覚えていますし、またそれをまねして自分でも繰り返し子どもたちに語ってきました。聖書を自分で読むことの前史には、語り聞かされた聖書、或いは聖書物語がありました。1946年、中学1年の時、洗礼を受けます。その日はまた、父岩井文男が伝道のきっかけを与えられて始めた坂祝(さかほぎ)教会の創立の日でもありました。第二次大戦後の精神的に疲弊しきった社会の中で、新しい希望として芽を出した農村の開拓教会(後・中濃教会と名称変更)は敬虔深い、信仰の情熱に包まれていました。中学生は、もう日曜学校では生徒ではなく「教師」でした。その頃教会の若い仲間と「聖書読破会」を作り、どこまで読んだか、教会の集会室の壁に励みのために表を作ったりして、お互いに競い合ったものでした。極めて「パイアスな(敬虔的な)読み方を身につけたと思います。後々『日々の聖句』(ローズンゲン)や『聖書日課』のような信仰の敬虔を日々養うために工夫された本、またこの類の信仰の手引きをいろいろと知り、今でも、聖書のこのような読み方は大切だと思っています。高校生になって、聖書の読み方は、キリスト教の教理を学ぶための読み方に変わってきました。教会の友だちと、「僕は聖霊ということがよく分からない」などという会話がもとになって、勉強をしようという雰囲気があり「信仰問答」などを手がかりに、キリスト教の教義を中心とした聖書の読み方をしました。後々、組織神学(教義学)、キリスト教倫理学などを神学校で学ぶことになるのですが、こういうキリスト教の神学には聖書的基礎づけがあって、聖書の重要箇所はその文脈に確固とした位置を持っていることを知りました。聖書は教会の信仰告白に沿って、教会が培ってきた信仰を継承するために読まれるものなのだ、ということを学んだ時期です。でも一方では全く違った聖書体験がありました。私の父はいろいろな経緯があって戦後農村開拓自給伝道を始めたのですが、生活は一人の信徒の方が開拓伝道のために教会に捧げた土地を牧師が耕して、そこから得た農産物を売って、生活資金にするというものでした。親子7人の生活は必然的に「百姓」の日々に巻き込まれました。中学生といえば結構な労働力です。しかし子供は子供であって農作業の当てにされた訳ではないのですが、そこは家族です。僕らも心得たもので積極的に参加をしました。今から思えば、伝道への参加という気持ちが強かったと思います。中学3年の時、関西同信伝道会の「高校生献身者キャンプ」に参加して、早々と「献身」(将来神学校にいって牧師・伝道者になる決心をすること)の表明をしています。それは日々の農作業の生活と表裏一体でした。春から夏は薩摩芋、秋から冬は麦という二毛作の農耕でした。薩摩芋の草取りの労働の過酷さとその換金性の低さとは、社会性を身にたたき込んでくれました。また都市中産階級の生活との落差の不条理の実感は後々の実存的思考の萌芽になったような気がします。しかし、晩秋、冠雪した御岳山が夕日に輝く黄昏に、水分を含んでふっくらとした種小麦を手のひらに包みつつ種まきをした経験は、自然の豊かさ、象徴としての神の恵みの事実性を感性として養われました。このことは後々聖書の読み方に深い影響を与えられました。例えば、マタイ20章の労働者の譬話だとか、マルコ4章の種まきの譬話のテキストの理解には、あの時の経験が潜在的に意味を持っていると思っています。こうして神学校にはいるまでの青年前期は、日常的敬虔を養うものとしての聖書、教理の大系の宝庫としての聖書、弱者の慰めや社会批判としての聖書、実存的な恵みの源泉としての聖書、が私の中では渾然一体となっていました。いずれにせよ聖書なしの自分と云うものは考えられませんでした。私の親は、共に群馬県の教会が信仰のルーツで所謂新島襄の子らでした。新島は同志社大学を京都に設立し、日本キリスト教史では会衆派(旧組合教会)の担い手です。そんな流れの中で、私の神学校は同志社でした。ここの神学校はリベラルで、私が在学した頃も、所謂教義学が中心の「神学」ではなく、「歴史神学」が中心でした。「聖書神学」も当然19世紀以後の歴史批判的研究が前面に出ていて、自由主義神学への決別を表明して20世紀の危機に真っ向から立ち向かう、あの1918年のカール・バルトの『ロマ書』の序文の雰囲気は背後のものでした。しかし、自分の内面には、聖書の中心的メッセージへの渇仰のようなものがあり、バルトがキリスト論的集中をもって聖書にアプローチする迫力には魅力を覚え、惹きつけられていきました。他方、社会的関心と聖書との関わりは潜在した問題意識で、これも抑えがたい関心でした。

 学校の勉強は、信仰とは別に現代の研究成果の吸収ですから、いわゆる聖書学の学びがあります。旧約のモーセ5書の資料分析とか福音書の様式史や編集史の研究を学ぶ訳ですが、自分と聖書の統合的関係が掴めないまま、様々な「聖書」への関わりが心の内に群雄割拠していたのが、私の青年後期の聖書との関わりでした。そんな時、出会ったのがブルトマンの聖書の実存論的解釈です。これは当時聖書の非神話化論として話題になっていました。歴史を史実(ヒストリー)として捉えるのではなく、出会いの出来事・邂逅史(ゲシヒテ)として理解するということは極めて新鮮な響きを持っていました。現代史の諸課題を生きる事を抜きにして「聖書」が語りかける真理(福音の出来事性)と出会うことはない、という関係的(実存的)「啓示」理解に一つの納得を得ました。今まである種の魅力を感じていた「啓示」の「客観性」を声高に強調する一見極めてまじめな、いわゆる「福音的」「教会論的」なあり方を自分の内側で相対化する事ができました。それに加えて客観化された「神学」「信条(文)」「信仰告白(文)」を歴史(ヒストリー)の文脈に戻して、その歴史における邂逅(神との出会い)とは何であったのかを問題にすることなしに、そのまま「信じる」という宗教者の陥りやすい観念性からの解放を意識するようになりました。「神学」と「神学する事(出会うこと・関係を生きること)」との区別を心掛けるようになりました。こんな思考の中で同志社での修士論文「エペソ書の教会論」を纏めました。関心はエペソの著者が叙述として述べた教会についての理解・論述を、どのような方法で、聞き手の実存に主体的真理として語りかけているのか、その語り手の苦心を探るといったものでした。論文にどのような副題を付けて論旨を表したらよいか悩んでいたとき、論文の趣旨を聞きあげた、指導教授の遠藤彰先生から「エペソの教会論 − その真理契機と体得契機」としたらどうですか、と適切なアドヴァイスをいただいたことは今でも忘れません。教会(初代教会がパウロに従って、「キリストの体」と表現した、その共同性)は、歴史の中で開かれた共同体を目指していたに違いないことを信じて書いた論文でした。しかし、今振り返れば、教会はその時代、その時代の中で、どうしていつも宗教観念性や政治的・経済的・社会的さらには文化的な枠組みに絡め取られた閉鎖性を色濃く持ってしまう共同体なのだろうかというような疑問もあまり持たないままの「教会論」を一生懸命論じていたような気がします。学校を卒業して、教会の現場に出て、西中国教区の三つの教会で20年務めを果たしました。その間、日本の社会は、太平洋戦争の侵略戦争への責任や反省の声に耳を貸すことなく高度経済成長の道をまっしぐらに歩み、アジアには経済「侵略」を、かつての軍事侵略をなぞるように辿っていく姿に、疑問を抱き、教会が開かれた共同性を願って歩むためには過去の戦争の責任を、きちんとすべきだとの思いを強く持ちました。自分なりに「日本基督教団」にまじめに関わったことが、いわゆる「戦争責任告白」(鈴木正久教団議長による)として結実をみました。しかし、「告白」の文言の完結性とは裏腹に教会の現実は、社会体制への批判はおろか、社会から疎外されている人々や問題への関心すら弱いものです。近くの教会での同労者かつ先輩の杉原助牧師にそんなことを話したとき日本のプロテスタントの信仰受容が教義的に正しくなされているにも関わらず、国家の共同性に呑み込まれたのは、勿論天皇制国家の絶対支配の強さにもよるのだが、そのような外発の要素とともに聖書の読み方にもよるのではないかという示唆を与えられました。それは、聖書を教義的には読むが、聖書を歴史文脈的に読み、聖書を生み出した教会(初代の箇々の原始教会)が直面した問題を、我々が今出会っている現在の問題との相関関係で読む読み方を通して学ぶことをしてこなかったことにも大きな原因があるのではないか、との教示でした。そんな時出会った本が、田川建三氏の『原始キリスト教史の一断面 − 福音書文学の成立』(1968)でした。マルコ福音書の研究です。マルコの著者が、イエスが民衆と共に生きた、その生涯、その言葉、その行動などの資料を丹念に集め「福音書文学」という新しいジャンルを構成したことの意味を説いたものでした。神の歴史への関わりを「イエス・キリストの出来事」という歴史の一回性(パウロ、及び原始キリスト教の正統の理解)に収斂してしまわないで、「文学」として表現せざるを得ない歴史として提示したのがマルコ福音書の独自性だということです。そのような福音書の見方は、近年の聖書学の成果に基づいています。このことに大いに啓発されました。私は今でも、聖書の敬虔的読み方、日毎の糧的読み方、またキリスト教の教義を知るために読む(教義そのものが歴史的経過の中で形成されたものですが)読み方を、自分が辿ってきただけに、それらはそれなりに意味を持っていると思っています。しかし、それをもう一度相対化して聖書の読み方を考え直してみることが、信仰者個人にしても、教会にしても、現在の現実の問題の中で、読み手を開かれた存在にしていくのではないかと思うようになりました。教会で、聖書学の成果を知った上で、聖書を読むということはそんなことではないかと思っています。

 そんな問題意識を持っている時に、神戸教会からの招聘がありました。神戸教会は元々リベラルな教会の伝統を持っていたので、私の問題意識をそれなりに受けとめて下さり、最近の聖書学の担い手である諸先生をお招きして学びの機会を作ることができました。

 それと同時に日曜日の講壇の説教も、聖書釈義の背景にある聖書学の知見を学びながら、持続する事に致しました。ただでさえ苦手な書斎の営みが、多面な活動を伴う宣教・牧会の波に呑まれておろそかであったとの悔いと反省は尽きません。しかし、そのような聖書へのアプローチの方法への思いは、24年間、週報、会報、年々の宣教方針などに漂わせて来たつもりです。そして、聖書を聖書学の領域で専門に取り組まれている先生達を神戸教会にお招き出来たことを心から感謝しています。

 在任期間中に雑誌に書いた文章や講演の記録の中で、聖書の読み方に関わるものを、大阪のSCM研究会の西川治郎さんが纏めて下さって「SCM叢書2』として出版して下さったことも忘れることの出来ないことでした。(『聖書を歴史的に読む』岩井健作 1993 大阪キリスト教書店)。

 終わりに幾つかの思いがあります。私が学ぶことが多かった『原始キリスト教史の一断面』の著者田川建三先生をいつかお招きしたかったのですが、任期中に実現出来なかった事が心にのこっています。もう一つはこれからの宿題なのですが、聖書学の成果に基づき執筆された『イエス 逆説の生涯』の著者笠原芳光先生は、キリスト教の止揚を説かれている方ですが、その問題提起を「教会」(功罪あるにしても)の「共同性」という視点から書評をさせて戴きたいと約束しながら、まだ果たせていないことです。

 そんな意味でもこの「記録」は私にとって過去ではなく、将来への促しを宿した文書になりそうです。鎌倉にて。2002年秋。