岩井文男と賀川豊彦の農民福音学校

賀川豊彦学会論叢20号所載 2012年6月30日発行

冒頭写真(岩井文男、77歳。1978年4月、健作さんの神戸教会牧師就任式で祝祷を捧げる。当時、新島学園中学・高等学校校長)

 1. 岩井文男の素描

 岩井文男(*1)(1901-1983)は、日本基督教団教師、教育者。群馬県 北甘楽郡高瀬村(現、富岡市上高瀬)の農家(養蚕、椎茸生産)に生まれる。日本組合甘楽基督教会にて岡部太郎牧師より1918年16才で受洗。 同志社大学法学部卒業、三井銀行に入行、1年で退社、大学の恩師 法学部教授・中島重に共鳴、日本労働者ミッションに参加、その派遣員として、京都府下草内村で農民運動に従事する。後、賀川豊彦の招き・支援で岐車県富田村で農民福音学校および伝道活動を行う。

 そこで入信した農民・兼松沢ーらを指導する。1934-37年 同志社大学神学部に学ぶ。後、日本組合渋谷基督教会(後移転改称して永福町基督教会)の開拓伝道に従事、日本基督教団設立時、第3部主事、総務局主事を務める。戦後、兼松らの招きで岐阜に日本基督教団坂祝(さかほぎ)教会を開拓・自給伝道により設立する。

 1952年 同志社大学宗教部主事、神学部教授、学生部長を務め、丹波教会を兼任する。1961年 新島学園中学・高等学校校長。83年 同短期大学を設立、初代学長を務める。 1983年没(82歳)。

 信仰は海老名弾正、特に柏木義円の感化を受け、自由主義的・正統主義。中島重・賀川豊彦のキリスト教社会思想を基盤とした農民運動・農村伝道に従事。教育では新島襄の人格主義を継承する。著書 『海老名弾正』(教団出版局 1973)。

2. 賀川豊彦との接点(*2)

(1) 同志社を基盤として

 1925年、賀川豊彦は同志社教会などの諸団体の招きで5日間の連合伝道集会で農民伝道の必然性を訴えた。岩井は同志社教会員、同志社大学 法学部政治学科在学中であり、法学部教授・中島重の感化を受けていた。

 中島重は東京大学時代、吉野作造の影響下にあった。同志社教授時代に、この時期の賀川豊彦に接し、「自分の信仰を此から叩き直さねばならぬと決心……『雲の柱会』という会を作り……有志と基督教と社会問題との関係に就いて研究をはじめ」(*3)たという。1929年「同志社労働者ミッション」を発足させる。

 岩井はこの中島の急激な変化をかなり冷静に捕らえてはいたが(*4 )、強い影響を受ける。「雲の柱会」は1929年「同志社労働者ミッション」に発展し、さらに「日本労働者ミッション」に改編された。そこから賀川豊彦の活動と提携する形で多くの青年たちを社会的実践の現場に送り出す。石田英雄、金田弘義、手代木文、中村遥(以上神学科)の諸氏。

 岩井は1928年、法学部卒業、三井銀行入社、名古屋支店勤務。この年、中島が同志社を解雇される。

 1929年、新藤まき江と結婚。 結婚後その年の3月、岩井は夫婦して賀川・杉山の開いた「第3回農民福音学校」に参加(*5 )する。

 この年、決心して銀行を辞し「日本労働者ミッション」派遣員として杉山元治郎の紹介で京都府綴喜郡草内(つづきぐんくさじ)村に農家の一軒を借り、農民運動、農民伝道に従事する。この背後には中島の強い要請があった。この活動は同志社騒動で経済的支援が途絶え、中止となる。それからしばらく東京の義父・新藤英松の万年筆工場で働き生計を立てる。

(2) 岐阜における活動

 1932年、賀川|豊彦は待機中の岩井を信徒伝道者として岐阜県加茂郡富田村に送り込む(その地を郷里とする在米の医師平田が経済的支援をする)。ここでは農民運動よりも直接農民伝道に力を注ぎ、兼松沢一ら2名の改宗者・受洗者を得る。この為か気持ちが直接伝道に向き、1933年、賀川の援助ほか友人達の努力で同志社大学文学部神学科に入学する。卒業後、初めは渋谷区八幡通りの借家で「日本組合渋谷基督教会」の開拓伝道を行い、後、杉並区永福町に土地・建物を求めて名称を永福町教会と改め伝道を継承する。

3.戦後の農村伝道

 戦後、兼松沢一は、岐阜県加茂郡坂祝(さかほぎ)村黒岩で開墾した3町歩の土地と、自宅として使っていた古い農家一軒を捧げるので自給開拓の伝道者を送って欲しい、と岩井に相談する。適当な人材が得られなかったので、永福町教会を解散し、その伝道を岐阜の坂祝教会に継承するという計画の許、岩井は家族共々招きに応じ、移住する。 生活は自給農業(ランプの日常生活)にて、新たな農村伝道を開始する。1946年10月6日、日本基督教団坂祝教会を設立(現在、日本基督教団中濃教会)。

農民福音学校、坂祝教会 会堂兼牧師館。健作さんは教会創立日に受洗。同志社入学まで家族と共に中学・高校時代を過ごす。

 永福町教会の資産を運用し、活動拠点としての集会所・兼牧師館を建設し、教会活動と並行して、農民福音学校を夏と冬に開設する。これは1950年頃まで継続する。杉山元治郎、藤崎盛一、樋浦説、嶋田啓一郎、栗原陽太郎、室野玄一、木俣敏、梶川亨司、渡辺博、水谷能里、岸本羊一、などが遠くは群馬、東京、 関西、地元岐阜大学農学部から農業、林業、技術改善、共同組合、 農民運動、生活改普、讃美歌などの講師を務めた。戦後軍人から開拓農業に転じた農民たち、坂祝村の農民が参加、そこで養われた人物の感化は教会を中心に継承され、高度成長期を経た現在も、農村教会の核心となって残っている。

 賀川豊彦は新日本建設運動の一環としてこの地を応援する(*6)。 1946年4月16日から18日、黒田四郎を伴なって、岐阜伝道が会衆4790、決心者1345 、で行われた。坂祝では小学校講堂で約300名が集まった。

4. 岩井文男の生涯と思想の批判的継承

 岩井文男は賀川豊彦の影響を受けて農民運動、農村伝道、キリスト教の社会的広がりのある伝道を展開した。その岩井文男の次男として、その影響下で信仰を養われ、牧師となった私にとって、いわば賀川の遺産と継承の思想圏内にある自分を自覚している。間接的には、戦後農村伝道・職域伝道が日本基督教団にもたらした宣教諭(体質改善・伝道圏伝道)の影響下にあって、伝道・牧会に携わっている。

 只、批判的継承の形で受け継いだものは「キリスト教の戦争責任に対する問題」である。岩井文男は、決して積極的戦争協力者ではなかった。だが、戦後「戦争責任」に対しては自覚的にそれを意識することもなかった。そこを私および戦後若手教職が自覚し、1966年には、日本基督教団としての「戦争罪責告白」を鈴木正久に提言。それは「第二次大戦下における日本基督教団の責任についての告白」となって結実した。これは賀川豊彦・岩井文男への批判的視点でもある。それは負の遺産の継承であると思っている。

 戦時中、恵泉女学園長の河井道は学園に軍事教練を軍から強制され、賀川豊彦に相談、退役軍人の岩井文男を充てて軍部の押しつけをかわすようにとのことで、教練の「教師」で出向いた時期があった。牧師一色義子、牧師(故)徳田美智子などが経験を語っている。 また、岩井は椎茸農家の出身で、椎茸栽培の技術を身に付けていたので、賀川の農民福音学校で実習などを行ったと仄聞している。

「農民福音学校」については『日本キリスト教歴史大辞典』に土肥昭夫の簡潔なまとめがある。福島県小高で伝道していた杉山元治郎が1913(大正2)年以後、自宅を開放し開設したこと。その後農民運動にかかわった賀川豊彦、24年以降、群馬県で渋川民衆高等夜学校を開設した栗原陽太郎らが協力し、神の国運動(29-32)の一環として各地で関かれた。彼らは、デンマークのグルンドウィー(1783-1872)の教育理念による国民高等学校に範をおいた。1932(昭和7)年4月に日本キリスト教連盟嘱託幹事に就任した栗原の働きの評価、戦後も数年間、杉山、賀川を中心に各地で開催されていたことなどに触れている。

〔注〕
(*1) 『敬度なるリベラリスト−岩井文男の思想と生涯−』 (新島学園女子短期大学 新島文化研究所 1984 新教出版社)。および『日本キリスト教歴史大辞典』(1988)「岩井文男」 の項
(*2) 倉橋克人「日本における「社会的キリスト教」の胎動 −中島重と賀川豊彦の出会いをめぐって−」 『キリスト教社会問題研究』第59号所載
(*3) 同上書 P.18
(*4) 同上書 P.27
(*5) 『暗い谷間の賀川豊彦 』雨宮栄一 2006, 新教出版社, P.73f)
(*6) 「敗戦直後の賀川!豊彦 −新日本建設キリスト運動を中心にして−」『日本キリスト教史における賀川豊彦』 2011, 新教出版社、所載)