平和のメッセージと祈りの集い(2003 イラク戦争直前・横浜Y)

2003.3.8(土)、横浜YMCA 16:00-17:30、共催:横浜YWCA・横浜YMCA
(2003年3月20日、イラク進攻が始まる)

(川和教会代務牧師 健作さん 69歳)

”主は多くの民の争いを裁き
はるか遠くまでも、強い国々を戒められる。
彼らは剣を打ち直して鋤(すき)とし
槍を打ち直して鎌とする。
国は国に向かって剣を上げず
もはや戦うことを学ばない。”
(ミカ書 4:3、新共同訳)

 今日は、お祈りの集いですから、まず聖書の言葉に心を留めたいと思います。

 聖書朗読を、2か所していただきました。旧約聖書のミカ書4章3節と新約聖書のマルコによる福音書10章13節−16節です。

 旧約のミカ書は戦争のことを述べている箇所です。

 新約のマルコは子供のことを述べている箇所です。

 戦争で生命が最も危機に晒されるのは弱者です。その中でも未来を担う子供の死はほんとうに悲惨です。

 さて、ミカは紀元前8世紀(BC740-690)イスラエルで活動した預言者です。自分の村が、大国アッシリアの侵略で戦場として荒らされました。廃墟の中から、ただ神から与えられる希望だけを頼りに、再び立ち上った時に語った言葉です。「剣を打ち直して鋤とする」それは一つの戦後状況を告げます。

 ここで、私たちは「剣」と「鋤」という二種類の道具について考えさせられます。剣はもちろん武器です。戦争の道具です。いわば死を作り出す道具です。鋤は畑を掘り起こす農機具です。生活の道具です。いわば命を生み出す道具です。

 剣の延長線上で描かれるイメージと、鋤の延長線上で描かれるイメージとを、今想像してみてください。

 軍事攻撃は当然剣でしょう。外交努力は鋤でしょう。今、イラクを巡って、国連安保理事会は、直ちに武力行使か、査察の継続かで激しい攻めぎあいがなされています。象徴的に言えば、いわば剣派と鋤派に分かれています。

 剣の効果は即効性です。鋤の効果は、耕して、作物が実るまでの期間が必要ですから、じわじわと結果が出るという意味では、遅効性(遅く効いてくる)です。

 剣は即断で使われます。敵か味方か二分法でものを考えます。鍬は結果を長いことかけて待ちます。

 聖書のイエスの譬え話にも「毒麦の譬え」というお話があります。畑によい種を蒔いたのに、毒麦が混ざって生えてきました。敵の仕業です。しかし、イエスは、今抜くな、よい麦を抜くかもしれない、収穫まで待て、というお話です。

 鋤を使って作物の収穫を得るためには、あれかこれかの二分法では解決はつきません。

 武力行使が剣の思想ならば、反戦は鋤の思想です。時間をかけて熟成していく思想です。

 そうして「剣」に象徴されるやり方で物事を解決しようとするのが、剣を使える強い者です。

 大人と子供のことを考えた時、大人はしばしば、剣の発想をします。子供にはそんな考え方はありません。せいぜい取っ組み合いの喧嘩ぐらいですが、これも後になってみれば、喧嘩仲間、喧嘩友達という位です。成長のひとこまになりますから「鍬」に象徴されるやり方といってよいでしょう。


 さて、今日のもう一つの聖書の箇所はマルコです。

 マルコ福音書10章13節−16節をよく読んでみると、イエスが弟子たちに憤ったという記事があります。

 何を憤ったかというと、弟子たちが子供を見て、イエス様のそばに来てはいけないと「叱った」とあります。「大人の分別」を見せたのです。このイエスの憤りに注目したいと思います。

 この「憤り」はマルコ福音書にしかでてきません。他の福音書は、イエス様が「憤る」なんて都合が悪いと思って取り去ってしまっているのです。

 当時、子どもは、それ自身「尊い人格・命」としては考えられていなかったのです。

 それは、同時に、人間を有用性、つまり、何か役立つから価値がある、という人間の功利性でものを考えるということでした。子どもを遠ざけた、弟子の考えにはそういう所があったので、イエスは憤ったのです。

 そうしてイエスは、子どもは神の国の徴(しるし)なのだ、と言われました。

 何故、子供は神の国のしるしなのか。

 それは、功利性から考えることの出来ない存在だからです。

 その存在は父母の信頼や愛や加護という関係の中だけにある存在です。

 関係の中にある存在ということが大事なのです。

 電車の中に、まわりの人に愛嬌を振りまく赤ちゃんがいると凄く和やかであることを経験した方はありませんか。

 イエスは、子どもを「神の国」の「しるし」とされました。

 今、その子どもの命が蝕(むしば)まれていることに世界の危機を覚えるのです。

「神の国」のしるしが失われているのです。

 かつてないほどに子どもが命を失い、傷ついています。その現実を知り、イエスと共に子どもの存在を尊び、祝福する業に、私たちも参加させて戴こうではありませんか。

 そのために祈ることが大事なのです。

 私は、祈りという形式が大事だとは思っていません。祈りにも、剣の祈りと、鋤の祈りがあります。

 何故かというと、およそ半世紀前、広島に原子爆弾が落とされた時の話です。原爆を積んだ飛行機B29がグアム島を飛び立つ時、軍隊にいる牧師さんが、この爆撃が神の守りで成功しますようにと祈っているのです。

 祈りにも、剣の祈りと、鋤の祈りがあります。即効性の祈りは、恣意的な祈りです。

 今、ブッシュ大統領は一生懸命に祈っているそうです。

 イラクの犠牲者が少なくて済むようにという祈りだと、どこかで聞きました。

『ニューズウィーク日本版』3月12日号には「神が導くブッシュ」という特集があります。

「現代のアメリカでブッシュほど宗教を重んじる大統領はいない」とこの週刊誌は言っています。

 彼はイラク攻撃の是非を巡って国連の議論が紛糾していた2月のある朝、イザヤ書の「まなざし高く揚げ、すべての創造主である神を見よ」を引用して語り、すべてを神に委ねたのです。

「アメリカが神からの贈り物である自由を全世界の人に送り届ける使命のために……サダムの衣を着た「悪」を、武力に訴えても対決することに、他に選択肢はない、私の心に迷いはない」と言っていると告げています。

 この週刊誌は「信仰ないし、信念にこだわるあまり、この大統領には現実の世界が見えないのではないか?」と疑問視しています。

 イギリスの作家ジョン・ル・カレは「ブッシュの狂気は、ベトナム戦争の時を超え、最悪のアメリカの狂気だ」と指摘しています。

 この狂気を支える具体的要因はあります。例えば、アメリカのエネルギー問題から見て、自分の国の石油のために、どうしてもイラクのフセイン政権を強力な軍事力で即刻倒しておかねばならない、とか国内の力関係とか。

 そのような議論は現実的政治家に詳細にやってもらったらよい、と思います。


 我々にできることは、戦争で傷つき、将来を奪われ、命の危険にさらされている子供たちを覚えて、祈ることだけです。

「子供たちの命を守り給え。
そのために戦争が回避できますように。
そのための世界のあらゆる力を支え給え。
我々がそのことのためにできることを教えてください。勇気を与えてください」

「ブッシュが心を変えて、戦争の回避を望んでいる国々や世界の民衆の訴える声を聞いて、戦争を問題解決の手段にすることを止めるようしてください」

 という祈りもあります。

「世界で反戦を訴えるものたちの声を励ましてください」
「アメリカの戦争に反対をしている人達が勇気をもって、アメリカを変えていくことができるように」

 という祈りもあります。

 今世界で、最も悲惨で命の保証すらない厳しい状況におかれている子どもたちは?

 多分その答えは、パレスティナの子どもでしょう。

 私はあのガザの街に1993年、中東キリスト教協議会を通じて、日本キリスト教団からアハリー・アラブ病院に支援金を届けるための教団訪問団に加わっていきました。

 イスラエルのプラスチック爆弾に傷つけられた沢山の子どもが入院していました。

 ガザの中心地、人口密集地にあるこの病院は自治政府の病院からあふれてしまった負傷者の緊急手当をしています。

 今はもっと厳しい状況でしょう。


 先週3月1日、横須賀で土砂降りの雨の中、私たち「百万人署名」の運動で、「Don’t Attack Iraq」と言ってデモをしました。

 その時、横須賀高校3年のSさんが二つの病院で撮ったビデオを見ました。病院でカメラを回すのはためらわれたが、ここにいる8割の子は助からない。湾岸戦争の時の劣化ウラン弾の犠牲だ。医師からそれを聞いてどうしても撮影して帰らなければならない、と撮ったものでした。

 今日もYWCAの川端さんから現地の状況はお聞きできるでしょう。

 問題は、私たちの、祈りと行動です。

 日本は、政府は、ほんとうにアメリカに尻尾を振って連いていくだらしのない人達です。

 マスコミ、マスメディアも、意地悪いほどに戦争反対の世論を作ってはくれません。

 我々が作り出さねばなりません。

 今、聖書のイエスは、苦しむ者と共にいることを信じて、祈ることです。

 そして、私たちの日常に剣の思想があるならば、それを、鋤の思想に変えていくことです。