和解へと促されて(2002 神戸・礼拝説教)

2002.3.3、世界祈祷日、神戸教会礼拝説教

(神戸教会牧師、退任1ヶ月前、健作さん 68歳)

コリントの信徒への第二の手紙 5章11-21節

 私たちの生活には、第三者の立場にならなければできないことがあります。例えば、離婚の調停は、第三者になってはじめて出来ることです。しかし、逆に、第三者的になってしまったら、決してできないことがあります。例えば、夫婦の和解です。どちらもが葛藤の渦の中にある当事者です。たとえ同じようには痛みを負い合うことができないとしてもです。もし一方が第三者的であるならば、解決や和解への道のりは遠いものとなるでしょう。

 聖書の神は、第三者的に場を確保して問題に関わる神ではありません。
「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。」とヨハネ福音書は語ります。世を、この闇の世を、愛する神です。それは、第三者的ではない、という事です。どんなに闇が濃くても、光であり続け給う神です。

 また、パウロはキリストについてこう言っています。「キリストは、神の身分でありながら、神と等しいものであることを固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした」(フィリピ 2:6)。これは、神が人間に対して、高みにいる第三者ではあり給わない、ということです。十字架の死を余儀なくする人間の罪の当事者になられたという事です。

 先程読まれた、コリント第二の言葉では「神は、キリストを通してわたしたちを自分と和解させ(つまり、当事者の荷物を負ってくださり)、また和解のために奉仕する任務を(つまり、第三者にはならないで、人々に関わる神の委託に励む任務を)をわたしたちにお授けになりました」とあります。

 ルーマニアの世界祈祷日委員会の女性たちが今日のために選んだ聖書テキストの「旧約聖書サムエル記のアビガエルの物語」(サムエル記上 25:14-44)では、アビガエルが、聡明で、勇敢で、信仰深く、預言の力を持った女性である事が、いわれています。この事は、言い換えれば、起こっている事柄に彼女は、第三者的ではなかったという事です。事柄の真相に、第三者的対応ではなく、真っ正面から、当事者として向き合ったのです。その事をまず注目しておきたいと思います。

さて、私たちは、この「アビガエル物語」というテキストをわざわざ選んだ、ルーマニアの女性たちにいささかの驚きを覚えます。このテキストを選んだ事のメッセージを受け止めたいと存じます。

 聖書のテキストというものは、そのままでは寝たままのものです。しかし、ある文脈のなかに入ると寝ているテキストが、起き上がります。ある文脈と申しましたが、そこが大事です。文脈のことを英語では、コンテキストと申しますが、テキストとコンテキストは微妙に共鳴し合います。

 コンテキストが適切でないと共鳴するどころか不協和音を発します。例えば、男性たちが中心になっている日本の教会の修養会で突如、このアビガエル物語をメイン・テキストに選んだとします。恐らく男性諸氏は「妻は聡明で美しかったが、夫は頑固で行状が悪かった」とか「ご主人はならず者で、だれも彼に話しかけることができません」といった文言に引っ掛かって、「何が言いたいのか」というような議論を引き起こして、テキストがコンテキストの中で冷静に活きた共鳴音を発揮しないでしょう。テキストが強烈過ぎるのです。

 恐らくルーマニアでも同じ事が言えるのではないでしょうか。今日の祈祷会のための栞の50ページ以下の「ルーマニアの女性の現状」を読むと、女性が社会でも家庭でも虐げられている様子が垣間見られます。かの地でも、教会修養会にはこのテキストはふさわしいものではないかもしれません。

 しかし、今年の世界祈祷日という、世界規模の集会のコンテキストに、ルーマニアの女性たちがこのテキストを選んだ時、このテキストのメッセージは遺憾なく発揮されています。

 21世紀冒頭の、世界規模の破壊と戦闘行為のイニシアティブはすべて男性によって引き起こされています。男性を軸にして動く戦闘行為、戦争可能な社会体制の在り方の推進。その事への批判と反省を促す強力なメッセージがここにはあります。
 アメリカ、そしてそれに追従する日本の軍事化は少なくとも女性のイニシアティブではありません。

 33ページ以下の聖書研究を読むと、この歴史物語はダビデ王朝に好意的な視点から書かれています。ダビデは、アビガエルの行動を単なる当座の利益や、虐殺の回避のための政治的行動とだけ受け取っていません。彼女を、主の使いだと受け止めています。自分が流血の罪を犯す事をとどめてくれた主の遣わされた器だ、と受け止めています。ここはこの物語の中心部分です。

 アビガエルは事柄に第三者的にではなく、真っ向から向かい合ったのです。この事は、言い換えれば、神の業に参与したという事です。

 和解とは調停ではありません。差し迫る臨戦体制・戦闘行為に対して、事態に調停的に、政治的に対処することではありません。もちろん当事者であればこそ必死の、接近、戦略、根回しの知恵はあるでしょう。しかしそれが目的ではありません。ダビデに悔い改めを迫る、神の業への見えない参与なのです。真っ向からの関わりとは、神がご存じの、大きな御手の業なのです。第三者的立場での関わりには、そのような迫力はありません。

 昨日2月28日の朝日新聞「オピニオン」のページにこんな論説が載っていました。社会部の本田雅和さんの書いた記事です。見出しは「アジア女性基金 韓国から撤退」というものです。「『国家補償回避』と反発」、「慰安婦問題、課題残す」という小見出しがついています。旧日本軍慰安婦に国民からの募金による『償い金』などを支給してきた『女性のためのアジア平和国民基金』があります。アジア女性基金の代表者は、村山富市理事長です。5月1日をもって韓国でのこの事業を撤退せざるを得なくなったのです。これは『日本政府による国家補償を回避するもの』と内外の批判を浴びてきた基金です。とりわけ韓国では慰安婦の支援団体や金大中政権からの反発を招きました。この運動は一見、市民の立場から償いをし「慰安婦」とされたサバイバーの人達の問題に寄り添うようです。しかし、結局は当事者に対して、第三者的な関わりしかしていないという事で行きづまりました。日本YWCAも日本キリスト教婦人矯風会もこの第三者的運動には初めから批判的に参加してこなかったのは、運動の推移をきちんと把握していたからです。

 私は、先日「沈黙の歴史をやぶって ー 女性国際戦犯法廷の記録」というビデオを見ました。また『戦時・性暴力をどう裁くか ー 国連マクドゥーガル報告』を読み始めています。そこには1990年代になって日本軍性奴隷制の被害者にさせられた人達の長い沈黙を破っての生々しい証言が収録されています。韓国、台湾、中国、北朝鮮、インドネシア、マレーシア、オランダの女性たちです。みな70歳を過ぎた方たちの証言です。加害国日本の謝罪を求めておられます。正義の回復を求め歴史の闇の部分を明らかにしています。韓国の朴永心(パクヨンシン)さんは、故郷で強制連行され、南京、上海、ビルマのラシオ、四国の松山と第56師団に同行され、強姦され、妊娠させられ、今法廷に出て、涙されていました。一方の当事者の氏名、命令系統が次々と明らかにされていきます。涙なしでは見られない映像です。当事者に限りなく寄り添いつつ進められたのが「女性国際戦犯法廷」でした。

 これを見ながら、私は、和解とは、第三者にならないことだ、と教えられました。神は、人間の悲惨に、人間の罪の結果に、イエスの十字架の苦悩と死をもって寄り添われました。その寄り添い続ける事に救いを示されました。問題を第三者的にしてしまわない所に神は宿り給う、のです。

 幾つかの問題、水俣病、ハンセン病隔離政策、ヤコブ病は法的、補償上での国との和解が少しずつなされています。しかし、当事者の社会的、精神的、内面的な和解はまだまだ茨の一歩を踏みだしたばかりです。和解への道のりは遥かです。

 私は、日本の国で、ルーマニアからのメッセージ『和解へと促されて』を真剣に受け取るとすれば、戦時性暴力の加害者責任と謝罪が国家によってなされるように、これからも様々な働きかけをしていく事を除いては、有り得ない事だと感じています。

 サバイバー・被害者の人間的存在が、加害国家とのかかわり、居場所をもつ事。その方たちの、社会的受容、精神的受容、実存的受容が進むように寄り添っていく事、この問題を負っている方たちから事柄を聞き続ける事。わたしたちにできる事を探る事。そしてわたしたちの無力の自覚のなかで祈る事。その営みと共にイエスがいましたもう事が私たちの力であり、励ましです。

 祈ります。

 神様、あなたは御子イエスによって和解の福音をもたらされました。わたしたちがまた、この国の重い現実の中に働き人として立つことができる様に導いてください。主イエスの御名によって祈ります。アーメン。