2002.3.10、 神戸教会、神戸教会週報、復活前第3主日
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(牧会44年、神戸教会牧師 24年目、健作さん68歳)
(神戸教会牧師退任の月)
マルコ福音書 14:32-42、説教題「もうこれでいい、時がきた」
キリスト教の総合雑誌「福音と世界」の今月号(2002年3月号)の表紙絵には、画家・渡辺総一氏が「ゲツセマネの園での祈り」という題の絵を描いている。
古来多くの画家が「ゲツセマネの祈り」を画題にしてきた。
構図は「眠れる3人の弟子」「地に伏して祈るイエス」「上からの光」「深閑(しんかん)とした風景」の配置からなる。
少し調べてみたら面白いのではないか。面白いなどと言うと不謹慎の誹りを免れないが、画家たちのこのテーマへの関わりのスタンスが伺われる。
スタンスとは「(岩登りの)足場、(球技打者の足の)位置、(心的な)姿勢」という意味だが、渡辺のものと、小磯良平のものとしかない。田中忠雄、渡辺禎雄の画集には、このテーマは出ていない。
小磯と渡辺総一のものを並べてみると、構図はよく似ている。スタンスはかなり異なる。
渡辺は「表紙の言葉」を書いている。
”イエス様は汗を血のように流しながら祈りました。……ゲツセマネはオリーブを絞ると言う意味ですが、イエス様の祈りに重ねてみました。……また、十字架への道は、神と人との和解への道であることを噛み締めました。”(渡辺総一)
極めて神学的である。
オリーブの大木を背景に配して「血の汗」と「絞る」と言う、地に伏すイエスの強烈な内面的苦悩のイメージを描く。
イエスの傍らに置かれたグラスの朱色のブドウ酒には「贖罪」の”血”が象徴されている。
小磯の絵の方は、どこまでも写実的である。
荒涼たる岩場に、天の一角から光が差し込み、イエスは、その光に顔の面を上げている。
渡辺の俯くイエスとは対照的で、光を仰いで祈る。多分「御心に適うことが行われますように」(マルコ 14:36)にアクセントを置いたのであろう。
この場面のイエスは自身の内面の厳しさとは対照的に、弟子たちに温かい。
「心は燃えても、肉体は弱い」(マルコ 14:36)と、弱い弟子を受容する。
決定的なのは「もうこれでいい。時が来た。…立て、行こう」という言葉であろう。
”イエスは三度目に戻って言われた。「あなたがたはまだ眠っている。休んでいる。もうこれでいい。時が来た。人の子は罪人たちの手に引き渡される。立て、行こう。見よ、わたしを裏切る者が来た。」”(マルコ 14:41-42、新共同訳)
「もうこれでいい(”アペケイ”)」は、元来は商業用語で、「支払い済み、勘定は済んでいる」という意味である。
イエスが祈る場面の横で眠る弟子に「祈りの勘定はもう済んでいる」と語る。
祈れないことへの執り成しである。
祈りは神の行為であって、人の業ではない。
「わたしたちはどう祈るべきかを知りませんが、”霊”自らが、言葉に表せないうめきをもって執り成してくださる」(ローマ 8:26)とのパウロの表現によく表されている。
そんな弟子がなお「立て、行こう」と十字架の道行きに一緒に行くように招かれている。
ペトロ。
あの挫折せる者にも、なお招きが、と思うと慰め深い。





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