行きなさい《マルコ 10:46-52》(2002 礼拝説教・週報・復活前)

2002.3.3、 神戸教会、神戸教会週報、復活前第4主日

(牧会44年、神戸教会牧師 24年目、健作さん68歳)
(神戸教会牧師退任の月)

マルコ福音書 10:46-52、説教題「行きなさい」

 マルコ福音書は「イエスという方においてなされた神の大いなるわざ」を人々に告げ知らせている信仰の証しの書です。

 初期教会の第一級の神学的労作です。

 イエスの生涯・振る舞いに関わる物語伝承を丹念に収録している、紀元70年台の初期教会で生まれた初めての「福音書」という文学類型の書物です。

「奇跡」により病める人々が癒やされ、当時の既成宗教を根底から批判するイエスの挑戦的言動、そして死に向かっていく緊迫を伝える文書です。

 受難節から復活祭を迎えるこの季節、イエスに近づくことを願って、改めて心静かに通読をしたい聖書の一書です。


 マルコ10章46節以下の「盲人バルティマイをいやす」物語は、マルコ福音書全体の分水嶺に位置するような物語です。

 前半は律法学者・ファリサイ派やイエスの故郷の周囲の人や弟子たちの頑迷さが記されています。

 救いの出来事が見えない人々の浮き彫りです。

”医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。”(マルコ 2:17、新共同訳)

 とあるように、「福音は奇跡物語に乗って」というほどに、病める者の癒しが語られています。

 11章以下の後半は、受難物語へと至るイエスのもたらす救いの逆説が、待ったなしに告げられます。

「救い」が見えないというのであれば、それは「神の奇跡」による克服以外にないと、この分水嶺に象徴的「盲人の治癒物語」をマルコは配置します。

「ダビデの子イエス」(マルコ 10:47)は当時、治安に関わる罪に問われる禁句です。

 盲人バルティマイによるギリギリの信仰告白句でした。

 救いは「わたしを憐んでください」と叫ぶ以外に自己表現のない人と出会っています。

”多くの人々が叱りつけて黙らせようとしたが、彼はますます、「ダビデの子よ、わたしを憐んでください」と叫び続けた。”(マルコ 10:48、新共同訳)

 ペトロの告白「あなたこそメシアです(マルコ 8:29、新共同訳)」が否定的に扱われていることと比較すると暗示に富みます。

 イエスは「何をしてほしいのか」と盲人の切なる叫びを聞きます。

 彼は明確な救いへの意志を持っています。

「目が見えるようになりたい」

 これほど切実な意志が他にあるでしょうか。

 イエスは「行きなさい。あなたの信仰があなたを救った」と言われます。

 注意深く読むと「救った」は現在完了形です。

 イエスの言葉によって、彼の他律的意志はすでに自律的意志に変えられているのです。

「奇跡」はここで起こっているのです。

「行け」は押し出す言葉であると同時に、「あの道」、イエスの後を辿ることへの招きでもありました。

”重要なことは、あなたのうちに何があるかということではない。重要なことは、神があなたを肯定しておられるということだ。”(イエルク・ツィンクの言葉)

 人生の絶望にも関わらず、切なる意志を「あなたの信仰」として受容されているバルティマイに身を重ねていきたいと思います。



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