故 吉田信兄 葬儀説教(1988 神戸教会員・葬儀・詩編121) 

1988年6月14日(火)東京の斎場(千日谷会堂 新宿)
神戸教会員•吉田信(作曲家・NHK音楽部長 1904-1988)葬儀式
岩井溢子さんによるデータ化(投稿日:2021年2月15日)

(牧会29年、神戸教会牧師、健作さん54歳)


 遠くより近くより、西から東から、あるいは「南から」ご参列の皆様。

 私どもがご生前より尊敬してやまなかった故吉田信兄弟は、ご承知のごとく、去る5月30日午前5時42分、東京女子医大病院にて肺炎のため、最善の医療と看護にもかかわらず、ご子息とそのご家族に看取られる中、静かに平安のうちにこの地上の生涯を終えられ、神の御許へと召されて参りました。

 今、お集まりの各界の皆様と共に、数々の思い出を深めつつ、故人を偲び、別れを告げ、ご遺族の上に天来の平安をお祈り致したいと存じます。


 人生には、やがてこういう時があること、それは誰しもが知っています。しかし、その「時」の訪れを自らの手の内にあらかじめ抱えこむことはできません。

 旧約聖書の詩編31編15節に「私の時はあなたの御手にあります」という言葉がありますが、「あなたの御手」即ち神のみ手にその「時」がゆだねられている、という古の人の信仰の言葉を厳粛な思いで、思い起こさざるを得ません。

”わたしの時はあなたのみ手にあります。”(詩編 31:15、口語訳 1955)


 故人のご略歴につきましては、本日の葬儀式次第の終わりから2枚目に大変分かりやすくまとめられたものが載せられておりますので、改めて逐一申し述べる重複を避けさせて頂きますが、その行間には個人の人生が豊かに彩られ、また恵まれた環境、まれにみる天分、そしてそのお人柄ゆえの限りない交友の広がりが窺われます。

 多分、今日お集まりの皆様のそれぞれがその行間のどこかに、あるいはいくつもの時代を通して、故人との交流を偲びつつ、一つの《ふるさと》への郷愁に似たものを心に留めておられると存じます。

 この短い略歴を拝見していると、故人にとってのいくつかの《ふるさと》を思い起こします。


 その一つは岡山です。

 吉田家は代々岡山の池田藩の方々で、家業は紅と木綿の問屋を営むかたわら芝居小屋・旭座を経営、またおじいさんは武術の師範を務められたといいます。

 御尊父・吉田金太郎氏は、岡山孤児院の創立者・石井十次氏に私淑、その後「岡山教会」で熱心なキリスト教徒になられ、同じ教会員の近さんと結ばれます。

 故人はこの教会で幼児洗礼を受け、牧師・安部磯雄(岡山教会牧師 1887-1897、この間にアメリカ、ドイツ留学)を知ります。

 御尊父は後、有価証券の仲買店を神戸で開き、故人に家業を継ぐことを期待されますが、故人が東大法科に進むのを許したのは、安部先生の許にいて学ぶのであれば良いということであった、というエピソードをお聞きしています(1899−1927年、安倍磯雄は東京専門学校・早稲田大学教員、1928-1940年 衆議院議員)。

 加えて、岡山は旧制第六高等学校時代の豊かな青春の場であります。故人が愛用されていたシードマイヤーのピアノは岡山時代からのものではないかと想像しています。

 そして、岡山には吉田家の墓所が今なおあり、そこはまた故人の地上の最後の《いこいの場》であると存じます。


 幾つかの《ふるさと》の一つは何といっても神戸でありましょう。

 ご両親が神戸に移られたのは、1905(明治38)年。

 港町神戸は近代文明の窓として栄え、折しも大正デモクラシーの波に乗って文化花咲く時代でありました。

 1874(明治7)年に文明開化の流れの中で創立された「神戸教会」の最も華やかなりし時代に、故人は小磯良平氏らと共に日曜学校に通い、日本の幼児教育の源流ともいわれるA•L•ハウに「頌栄幼稚園」で心に染みる英語の歌や遊戯を教えられました。

 また「丸い音、丸い音」といって、故人にピアノ指導をされたラムゼガー夫人に出会ったのも神戸であります。

 ご両親ご健在の間は季節ごとに神戸に帰り、NHKの音楽部長に招かれた時も、第一に神戸に戻ってご両親に相談をされています。

 今も当時のモダンだった吉田家の居宅は諏訪山に兵庫県会議員寮として残っています。

 教会も終生「神戸教会」に籍を置かれていたのは、神戸が《心のふるさと》であったからでありましょう。


 故人は1924(大正13)年、東大法学部に入学(関東大震災の翌年)して以来、64年、東京が活動の場であられました。

 東京は《ふるさと》というにはあまりにも大きすぎますが、実に多くの人との出会い、そして別れを経験されています。

 東大に入学された年、穂積重遠(しげとお 1883-1951)教授の民法講義で〈人の人たるは人と人とのつながりにあり〉の一句を聴き、非常な感銘を受けたと記しておられます。

 この人と人とのつながりをこそ、この東京で大切にされました。

 先日、私は故人が書かれた「ミュージック・リポート」の「音楽記者一代」の連載70回分を一気に読ませていただきました。

 その中でこの言葉に出会ったのでありますが、この言葉どおり東京での60年余りはペッフォルド夫人、信時潔先生はじめ、よき師に出会い、よき先輩に出会い、よき同僚に出会い、何よりも才能と天分にあふれる音楽・芸能界の才人に、また音楽文化の推進役の経済人に出会っておられます。

 70回の「音楽記者一代」はそのあとがきにもありますように、先に他界された清子夫人が保存をしておられた数百枚の写真を見出し、それを眺めながら夫人を偲び、記念して書き綴られたものです。

 私は音楽や芸能の世界のことは分からない者ですが、読ませていただいているうちに、これは「人物・大正・昭和歌謡史」あるいは「人物・芸能・音楽史」といったものになるのではないかとの思いを抱きつつ、ページをくらせていただきました。

 そこには六百数十人のこの世界の方々が、一人一人温かいまなざしで記されています。更に名が記されてはいないけれど、故人が愛した音楽や歌の好きな人々がいます。

 NHK音楽部長時代、戦後「素人のど自慢音楽会」を企画したのは故人です。最初の案内で900名の応募者があったことを、故人は思い出しつつ素人の歌好きにこよなき声援を送っておられます。

 故人はご家族はもとより身近な身内に温かい方でした。

 長兄であられた故に、ご兄弟姉妹にこまかい思いやりをかけておられます。

 1925(大正14)年に夭折された妹の政子さんのために一文を奏し、いとおしんで「葬送行進曲」を作曲しておられます。

 また、神戸女学院の音楽科を卒業されたピアニストの敬さんのこと、ご令弟・義八郎さんが「志村道夫」の芸名でレコード界でご活躍になったことなどを記しておられます。

 つい2年ほど前、私は故人の甥御さん(外国で若くして亡くなられた)吉田金太郎さんの葬儀を司らせていただきました。その時も京都まで出向き、温かい親族代表のご挨拶を述べ、信念に生きた生き方をやさしく包んでおられました。

 また故人はなつかしい多くの方との死別の悲しみを綴っておられます。

 その中で印象に残るのは、藤浦洸(こう 1898-1979 作詞家・詩人)さんの想い出です。

 藤浦さんが『南から南から』の作詞者であったことから、その歌を歌った三原純子さん(1920-1959 歌手)と共に特別な思いはあったでありましょうが、それ以上に、同じくキリスト者としての信仰に生きられた姿にあったとも思われます。

”80歳にしてなお童心を胸に秘めていた藤浦洸さん……わたしは、心美しくクリスチャンとしての生涯を終えた友の霊よ やすかれ、と祈っている。”

 と追悼文を結んでおられます。

 本日の式に選んだ讃美歌489番は藤浦さんの愛唱歌であります。

 その3節には「親はわが子に 友は友に 妹背あい合う《父のみもと》」とあります。

《父のみもと》《神のみもと》であり、そこですでに召された清子夫人にまみえ、ご両親にあい会われ、また友とあい会う。

 そこには故人最後の《ふるさとのいこい》が待っておることでございましょう。


 本日の葬儀に、私は聖書の数多い言葉の中から、旧約聖書の詩編121編を選ばせて頂きました。 

 これは神への信頼を歌った詩であります。

 この詩は古の時代、イスラエル民族がバビロニア帝国に捕らわれの民であった時、遠く国境の山々に向かって目をあげて自分たちの助けはどこから来るのか、と動揺と不安に心が動いた時の詩であります。

 しかし「わが助けは天と地を造られた主から来る」と堂々と神に対する信頼に立ち返りその信仰を言い表したものです。

 私たちは親しい方の死に出会う時、限りない寂しさを覚えます。

 また、そこに己の人生の終わりを重ね合わせて、おごそかなる思いを抱きます。

 しかし、私たちはこの詩の最後の言葉にありますように「主は、今から、とこしえに至るまであなたの出ると入るとを守られるであろう」という人生の出所進退が、生と死を含めて、神により守られていることへと心を向けることにより、慰めを得たいと存じます。

 この聖書の言葉を通して、ご遺族そして今日お集まりの方々が、慰めと希望を得て下さるようにお祈りをいたします。


祈りを捧げます。

父なる神、
 今日まで84年の長きにわたって、
 故吉田信兄を私たちの間に遣わし、
 信仰の友として、家族として、友人として、先輩として、
 交わりを得させてくださいましたことを感謝いたします。
 どうか故人の残されたよきものを受け継ぎ、心に宿して、
 それぞれの人生の道のりを歩むことが出来ますように、
 淋しさと悲しみのうちにある者に天来の慰めを祈ります。

 この祈りを主イエス・キリストのみ名によってお捧げ致します。アーメン。


健作さんの他のテキストにおける吉田信さん

(1) 以下、「小磯画伯の婦人像」(1989)より抜粋

 昨年の6月、小磯画伯の日曜学校友達の一人だった吉田信さん(神戸教会員、元NHK音楽部長・日本レコード大賞審査委員長)が亡くなられた。東京で葬儀を行った私が、帰神後、画伯(小磯良平画伯)を訪問し、そのことをお知らせした。

「吉田君の母、近(ちか)さんはしっかり者だった」と語られた。もう言葉がはっきりしないほどに弱られていて聴き取りにくかった。だが、そこには古(いにしえ)の婦人像の鮮明さがあった。いつものように短い祈りを捧げると「アーメン(然り)」を静かに唱和された。お別れして立ち上がり、玄関で靴を履いていると、いつの間にか付き添いの方を支えにして(その日、ご息女邦子さんは外出でご不在だった)、そろりそろりと歩いてこられ、わざわざ私を見送って下さった。

 慈しみをたたえた端正なその眼差し(まなざし)は、もうこの世にはない。


(2)以下、神戸教會々報 No.160(2000.12.24)より抜粋

 神戸教会員・吉田信(1904-1988)氏がNHK音楽部長に就任したのは太平洋戦争最中1943年だった。その頃、ラジオの「希望音楽会」ではクラシックと歌謡曲の2本立ての放送を聴取者のハガキによる希望を基に行っていた。戦後、彼は書いている。

「ラジオの民主化は、マイクロフォンを大衆に開放するのが一番の近道と考えて、(昭和)21年1月19日の正午から”素人のど自慢音楽会”に出演したい人のテストを行う旨を、局報としてラジオで流しました。当日は900人の応募者が……行列を作っていました」と。

 上意下達の国の音楽報国政策の片隅には戦中戦後連続的に、聞き手と作り手の相互交通が残っていたことが窺われる。彼は「自らの音楽素養は、頌栄幼稚園時代に受けた、A.Lハウ宣教師の音楽教育や神戸教会日曜学校で讃美歌を歌った事に負う」と述懐している。

 民主的感覚をも含めて、教会は音楽に宿された宣教の働きを生み出してきている。


(3)以下、2006年の健作さんのテキストより抜粋

 吉田信さんが亡くなられて、東京で葬儀を行いました。吉田信さん(1904-1988)は 1916年(大正5年)に神戸教会で信仰告白をしています。

 神戸一中、六高、東大法学部から毎日新聞入社、ピアノを上野音楽学校のペッフォルド夫人に師事、作曲家として活躍、1943年からNHK音楽部長でした。

 敗戦後、いち早く「素人のど自慢音楽会」を企画したのはこの人です。第一回には900人が集まったといっていました。素人が一人一人個性をもって好きな歌を歌うことが民主主義の精神だ、といち早く見抜いた企画でした。映画の仕事、音楽評論などを務め、亡くなられた時は日本レコード大賞審査委員長でした。芸能界あげての大変な葬儀でした。

 彼は自伝で書いていますが「神戸では頌栄幼稚園でA・L・ハウによって音楽の素養を呼び覚まされた。この幼稚園は神戸の教会婦人会の熱意で生まれた。日曜学校で小磯良平さんなどとスコットランド民謡など讚美歌の美しいメロディーに接した事が音楽文化に貢献する原点であった」と述べています。

 いまだにレベルが高いといわれる合唱文化への「神戸のキリスト教」の貢献は歴史家の指摘するところです。

(サイト管理者)本葬儀説教テキストのデータ化は、吉田信さんの研究をされておられる方からの問い合わせが発端になっている。健作さんの別のテキストで触れられている「吉田信さんの自伝」(本説教では「音楽記者一代」70回の連載記録)について、図書館やネットのデータベースには記録が残っていない、ということであった。今回、33年の時を経て、その70回分の印刷物がご遺族の手元に残っていることがわかった。歴史的な価値のある貴重な資料であり、研究者がその全文にアクセスできるのは喜ばしいことである。本葬儀説教のデータ化は、健作さんが「葬儀説教」の原稿を身近に置いていたことと、溢子さんが手書き原稿の解読をしてくださったこと、ご遺族への連絡が可能だったこと、研究者の吉田信氏への敬意と熱意、全てがわずか数日の工程で果たされたが、稀有な出来事であろうと思う。感謝にたえない。

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