講演原稿「神戸のキリスト教 ー その光と影 『近代日本と神戸教会』が問うたこと、問えなかったこと」(2006 学会)

2006.9.29、キリスト教史学会第57回大会「特別講演」
於 神戸海星女子学院大学

(明治学院教会牧師 健作さん73歳)

「神は細部に宿り給う」。『近代日本と神戸教会』の「あとがき」の最後を、私は19世紀の建築家ミース・ファンデルローエの格言に近い言葉で結びました。それにあやかって、今日は小さなエピソードから始めさせていただきます。

 1978年、葉桜の季節、日本基督教団神戸教会の古い牧師館でやっと引っ越し荷物が片付きかけた頃、一人の紳士の訪問を受けました。

「自分は牧師にはならなかったが一人の信徒として、教会への奉仕で“新しい牧師”を支えてゆきたい」とご挨拶に来られたのが趣意でした。

「自分は牧師の家庭に育った。こどもの頃、家庭は母親が教会の会員の訪問などで毎日留守であった。夕方になってもいつ晩御飯が始まるのか分からず不安な経験をした。父親は横になって悠然と洋書などを読んでいて、取り付く島もなかった。自分が牧師になって家族にそんな思いをさせたくなかった」

 こんな話をされました。その母親とは、この教会で2度に渡って合わせて27年「牧師夫人」の働きをした、鈴木玉子(1897-1993)さんでした。94歳で特別老人ホーム「愛の園」で逝去された時、この老人ホームの逝去者第一号でした。このホームは神戸ホーリネス教会の斉藤信男・溢子両牧師が一人の老人の自死を契機にして不思議な導きで始められたものでした。

 日本基督教団が戦時下「6部9部」といわれたホーリネス系の教会が治安維持法違反で政府から弾圧された時、当時の日本基督教団は総務局長の文書(『日本基督教団資料集』2. p.225f)で「静観」を訴え、「教師は一層皇国民たるの自覚にたち」と、一つの教会の枝の痛むのを放置し、一層天皇制国家への奉仕へと歩み寄ることになります。

 この総務局長は鈴木玉子さんの夫鈴木浩二牧師です。時を経て1985年、日本基督教団はこの戦時下のホーリネス切り捨てを教団として謝罪し、公告をいたしました。これを受け兵庫教区は旧6部9部の教会への謝罪の訪問を行いました。当時教区の役員であった私は、ホーリネス神戸教会に斉藤牧師夫妻を尋ね、教団の過去を謝罪しました。それは、神の赦しに委ねましょう、とのことで、出来れば今手掛けている老人ホームのため祈ってほしいということでした。

 以来私は「支える会」の役員を受けて、応援をしてきました。そこで、かつての「総務局長の夫人」が最期をホーリネス教会の施設で看取られたということが、驚くべき出来事、「神の業」としか思えてならなかったのでした。

「鈴木さんは身をもって、信仰者の老人ホームでの最期の迎え方の手本を示してくださった」と感謝されました。私にとっては、キリスト教の信仰の基本にある「和解」「赦し」「贖い」ということが、歴史に痕跡を刻むとはこういうことか、と感じました。

 教団は「第二次大戦下における日本基督教団の責任についての告白」(1967年、鈴木正久議長名)を行いました。それが実際に「償われている」徴を、鈴木玉子さんの葬儀の時、ひしひしと感じ、込み上げてくるものを感じました。戦争責任は当事者を批判すればよいというものではありません。もちろん自覚する者が「償って」ゆかねばなりません。

 しかし、それにもまして「償われてゆく」ものが歴史の営みであることを覚えさせられました。戦後玉子さんのご息女は幼児教育を通して平和教育を実践されました。お孫さんの神戸学生青年センター館長の飛田雄一さんは、民族差別撤廃、多民族共生を通じて運動を続けられています。「神戸のキリスト教」の知られざる一面です。そうして、この「和解」の一端が私たちの知られざる人々、アジアの民衆までも含めて、担われていて初めて今日の我々があるのだと思わされました。

 私はすでに史学会の方々には「お手紙」という形でお伝えしましたが、講演をお引き受けして以来、かなりの緊張を強いられました。もし、私が研究者であれば、体系的に、総括的に、鳥瞰図的に、客観的に、対象的に、通時的に、理論的に、この神戸とそのキリスト教を捉えたでしょう。その視点では各論を含め、研究者のそれなりの蓄積がこの分野にはあります。しかし、私は何ゆえこの神戸に、居住し、生活し、活動し、思索したのかといえば、教会の牧会者であった、ということ以外には根拠はありません。

 ひたすら、この街に生きたのは、この街の人間に関わって、その細部を、虫瞰図的(虫が這うように)に、共時・共苦的に、部分的に、関係的に、感覚的に、関わって生きることが役割でした。講演の方法としては、一人の牧会者の目で見た「神戸のキリスト教」を語ればよいと気付いてからは少し楽になりました。神戸での24年(実は牧師館には夜昼なく緊張がありますし、時間はいつも連れ合いと二人で役目を果たしてきましたから(24掛けるX倍の時間を過ごしたことになります)、我田引水の表現になりますが、牧会と宣教に終始しました。牧会は、神が愛され、失われてはならない一人一人の人の魂への配慮。キリスト者であるか否かは問わず持たれる関わりです。教会および牧師の任務である宣教は、牧師の質が問われる「説教」。伝道、教育、社会への働きです。教会のプログラムが中心になりますが、そのエクステンション(広がり、外延)がたくさんあります。「こども」への働きかけ、キリスト教主義学校、YMCA・YWCA、社会福祉への関わり。それに様々な社会実践、反戦平和や人権や反差別の待ったなしの活動が含まれます。私の場合、幼稚園とその関係包括団体。各個教会を包括する日本基督教団および兵庫教区の役割と働き、他派教会との共同の働き。それに教会運営。これはもちろん会員・役員の役目ですが、気配りはいります。牧会の中の大きな役割には葬儀があります。それは、一人一人がこの神戸のキリスト教を生きてきた個人史に関わることですから、そこで知りえたキリスト教の軌跡は、ある意味では「地域学」のような意味を持っています。

 ある時、息子の葬儀をしていほしいと連絡がありました。

 吉田金太郎(1950-1985)さんのことです。1970年「よど号乗っ取り」を行って15年間、朝鮮民主主義人民共和国に亡命していて、病死をした赤軍のメンバ−の1人です。会場にお借りした京都・洛陽教会は、赤旗を掲げ「人民葬」と意義付ける赤軍派元同志と公安警察と多数の報道陣に囲まれた物々しい雰囲気でした。この葬儀を報道した週刊誌「フォ−カス」は、祖父は神戸の実業家でかなり名の知れたクリスチャンと報じています。神戸教会の歴史的会員です。私はこの葬儀はリベラルな神戸教会のキリスト教の広がりの範囲であると覚えました。

 リベラルとは何か。例えば、賀川豊彦は明治学院神学部がリベラルだという宣教師たちの判断で神戸神学校に移りました。その時のリベラルの基準はウエストミンスター信仰告白を遵守しないということであったということです。しかし、そういう意味ではなくて、ここでは信仰理解の様々な立場を尊重して、そこで対話を成り立たせるという意味です。宗教多元主義にまで開かれているぐらいリベラルです。

 現に『近代日本と神戸教会』の編集者の一人は笠原芳光氏です。彼が『イエス − その逆説の生涯』(春秋社 1999)を上梓し、「イエスはキリストではない」と「キリスト教を止揚する」立場を取られることはよく知られている事です。そこは対話に委ねつつ、広がりを持たせているという意味です。

 ところで、吉田金太郎さんの葬儀の時、伯父さんの吉田信さんが挨拶にたち、故人は自分の信念に立って生きた、このことは貴いことであったと思うという挨拶をされました。

 その、吉田信さんが亡くなられて、東京で葬儀を行いました。吉田信(1904-1988)さんは 1916年(大正5年)に神戸教会で信仰告白をしています。神戸一中、六高、東大法学部から毎日新聞入社、ピアノを上野音楽学校のペッフォルド夫人に師事、作曲家として活躍、1943年からNHK音楽部長でした。敗戦後、いち早く「素人のど自慢音楽会」を企画したのはこの人です。第一回には900人が集まったといっていました。素人が一人一人個性ををもって好きな歌を歌うことが民主主義の精神だと、いち早く見抜いた企画でした。映画の仕事。音楽評論などを務め、亡くなられた時は日本レコード大賞審査委員長でした。芸能界あげての大変な葬儀でした。彼は自伝で書いていますが「神戸では頌栄幼稚園でA・L・ハウによって音楽の素養を呼び覚まされた。この幼稚園は神戸の教会婦人会の熱意で生まれた。日曜学校で小磯良平さんなどとスコットランド民謡など讚美歌の美しいメロディーに接した事が音楽文化に貢献する原点であった」と述べています。いまだにレベルが高いといわれる合唱文化への「神戸のキリスト教」の貢献は歴史家の指摘するところです。

 吉田さんと一緒に日曜学校に通っていたのが後の洋画家小磯良平(1903-1988)さんです。

『近代日本と神戸教会』にも書きましたが、神戸教会の歴史を担った系譜には男性、女性、子ども、と三つが考えられますが、小磯さんは女性の系譜です。神戸にプロテスタントをもたらした「アメリカンボード」は最初の段階からE・タルカット、J・E・ダッドレーなどを派遣しました。ピューリタンの信仰はこれら女性宣教師が築いた神戸女学院、神戸女子神学校を通して初期キリスト者女性たちに生活化されました。その薫陶のうちにあったのが小磯の実母、祖母。養母、養祖母、養母の友人です。

 洋画の正統の習練を積み、デッサン力の抜群であった小磯は、優雅で、清澄感のある女性像の作品を遺しました。デビュー作「T嬢の像」のモデルは神戸教会のオルガニスト落合敏子さんでした。最晩年にご本人・河野敏子さんとのお交わりを与えられ、葬儀を司らせていただきました。美しい方でした。それはビューティフルよりもプリティーと表現すべきものでした。その底にはピューリタンの清純さを感じます。「心の清いものは神を見る」。これは葬儀の節、小磯さんを思っているうちに与えられたテキストです。太平洋戦時下、国策に添って多くの画家が戦争協力をさせられます。他の画家に比べて抑えた画風にギリギリの人間性が読み取れます。これも「神戸のキリスト教」の一断面であろうと感じています。

 小磯さんのことでは、忘れることの出来ないエピソードがあります。神戸教会員で平井城さんという方がおられました。小磯さんのアトリエの移転などのお世話をされました。若い時から小磯さんに肖像画を描いてもらいたいと頼んでいました。そのチャンスはなかなか訪れませんでした。小磯さんは80才を超え、平井さんも80才を超えました。ある日「あなたの肖像画を描くからアトリエに来て欲しい」と平井さんに連絡が入り、3日ほど通いました。仕上がったものは、平井さんが予期していなかったものでした。少々不満げな平井さんに「画家の見たあなたはこれです」と小磯さんは申しました。それから何年か後、平井さんが亡くなられました。病院に駆け付けた私は、ご遺体の顔の白布をそっと外し対面したとき、どこかで見た顔だと思いました。気が付いたら小磯さんの描いた肖像画です。ほんとうにそっくりでした。地上での最上の面持ちでした。画家は、その人の神の前に携えてゆく顔が見えるのだ、と驚きを感じました。

『日本キリスト教歴史大辞典』には神戸教会関係者が28名取り上げられています。女性は二人です。男性中心の歴史観は歴然としています。しかし、実際キリスト教会を動かし支えたのは女性たちでした。辞典にはない人、例えば、水谷愛(1899-1984)さんは神戸最古の福祉事業神戸孤児院(後、神戸真生塾)の第3代塾長です。神戸の福祉の歴史は彼女とその父・矢野殼なくしては語れません。水谷さんからは1952年、社会福祉法による運営になるまでのあらゆる苦労の話をたくさんお聴きしました(『愛 − 水谷愛子の歩んだ道』1985 神戸真生塾刊)。福祉の働きは、彼女においては、イエスの愛を伝える出来事そのものでした。決して伝道の手段ではありませんでした。「福祉即キリスト教(福音)」であった人です。水谷さんは「ゴッド・マザー」と呼ばれていました。乳児期から塾で育った青年が「お母さん(水谷愛のこと)を母として、『天の父』をお父さんとして生きてゆきたい」と教会で受洗したことは忘れられません。「神戸のキリスト教」の多面な働きの中で、捨てられた子ども、虐待された子ども、親から疎外された子どものかたわらに立ち続けた人です。

 私は、最近、「関西学院院史編纂室」が発行している『学院史編纂室便り』No23号を拝見しました。そこに、関西学院大学教授の野田正彰さんが「ランバスと中国での医療伝道」という論文を書いておられます。関西学院大学の創始者ウォルター・R・ランバスは若き日、医学と神学の双方を研鑽し中国・蘇州で医療伝道に携わりました。そこでの一人の中国人婦人との交流で教えられたことを後、「一人の人を治癒することによって、たとい彼が神の音信に全く興味を起こさない場合ですら、彼を取り囲む暗黒に神の光を射し込ませるものであることを認識しようではないか」(『医療伝道』 p.188,18、ピンソン著・半田訳『ランバス』2004 p.73)と記しています。19世紀の医療と伝道の関係は、医療を伝道の手段とすることを否定していました。

「医療伝道は説教の仕事に対する単なる添え物ではなくて、教会の伝道の本質的なる、不可分的なる部分としてみられるべきである」というデュガルト・クリスティー(『奉天三十年』上 297)の言葉がそれを語っています。野田さんは自らの精神科医の働きをそこに共感させ、関学の「Mastery  for  Service」をこの線で見ています。

 神戸では小児科医・三宅廉さん(神戸栄光教会、パルモア病院院長)、城ノブさん(婦人同情会)、それに初期医療宣教師・ベイリー(1847-1936)の働きなど、語りたきことはたくさんあります。

 関西学院といえばプロテスタントでも、メソジスト派です。神戸教会は「会衆派、コングリゲーショナル・チャーチ(日本では組合教会という)」の教会であり、明治以降のキリスト教主義学校との関係からいえば、神戸女学院、神戸女子神学校、頌栄保育学院、さらに同志社との関係が深い教会であります。しかし、多くの関西学院の卒業生、学生、教授が神戸教会の構成メンバーでした。その中でも極めて自由な個性をもっていたのが、東山正芳(1908-1993)さんです。英米文学者です。19世紀のアメリカの思想家、ヘンリー・ソーロウの研究家、というよりソーロウに惚れこんだ人でした。『ヘンリー・ソーロウの生活と思想』(1972 南雲堂)の著作は、ソーロウを隠者と理解した過去の誤解を解き、ソーロウの人間関係、社会観、自然観を統一的に理解し、それを現代の生活と思想に結び付けて積極的意義を浮かび上がらせた力作です。長らくヘンリー・ソーロウ学会の会長を務められました。東山さんのキリスト教理解はリベラルでした。キリスト教の止揚を掲げるかつての神戸教会伝道師、今、『イエスとはなにか』を探求して「森集会」を主宰し続ける笠原芳光さんの理解者でした。東山さんは「イエス・キリスト」という表現はしませんでした。「イェスの名によって」と祈りを結んでいました。笠原さんの問題提起を教会規模で受け止めるのは「神戸のキリスト教」ならではのことです。東山さんの葬儀の時、彼が顧問をしていた関学グリークラブの大勢のOBのおっさん達が、鍛え洗練されたハーモニーで 「神ともにいまして」の合唱に合わせて棺を会堂から送り出した光景は、忘れられません。

 韓晢曦(ハンソッキ)さんは東神戸教会の会員ですが、当該教会の新任の牧師からの依頼で 「葬儀説教」を私がした方です。亡くなられる前に丁度、岩波書店から『七転び八起き − 私の在日70年』(1997)という自叙伝を出されました。そのカバーの素描にはこうあります。

「済州島から大阪へ、食うや食わずの日々、植民地学徒兵としての戦争体験、断念した帰国の夢、さまざまな靴の商売、一度は失った信仰、そして病との闘い……。混乱と差別に翻弄されながら必死に生き抜いてきた波瀾万丈の70余年を、在日韓国・朝鮮人全体の社会史に重ね合わせながら綴る。在日一世の悲哀と願いを肉声で伝える貴重な証言」とあります。

 韓さんは両親に連れられ5人兄弟姉妹と一緒に6歳で日本に来た在日です。高等小学校を出て、大阪のセツルメント事業・淀川善隣館で朝鮮人を差別しないイエスの教えに出会い組合教会のモラン宣教師から洗礼を受けます。志を立て独学により「専門学校資格検定」を突破、同志社大学文学部神学科を卒業します。故国での伝道の願いを断念した後、三足の草鞋を履き続けて猛烈な人生を歩みます。

 第一は、実業の道。ゴム靴の行商から、幾つもの会社を起こし、株式会社グリーン社長、日本ケミカル工業組合のトップとして業界をリードします。第二は、学術研究。日韓関係史の資料を4万点収集し「青丘文庫」を創設し、若い研究者を育てます。自らも翻訳、著作に励み、77才で「日本キリスト教海外伝道史」を同志社大学神学部に提出し、神学博士号が授与されました。青丘文庫は神戸市に寄贈され、今は広く一般研究者に利用されています。第三は「奉仕」です。自分の教会はもとより、問題提起渦中に兵庫教区、変革の課題をもった日本基督教団。特に神戸学生青年センタ−の設立運営。さらに神戸YMCA。などなどあげれば切りがありません。「運動と運営」という難しい緊張を絶妙なバランスを取りつつ奉仕されました。

 私は、神戸に来て、教団や教区で活躍する西原基一郎さんに初めて出会いました。ある日、マッケンジー『朝鮮の自由のための闘い』を翻訳した人に韓晢曦という方がいるのだがご存じないですか、と聞きました。

「それは僕ですよ、僕。あなた、韓晢曦で銀行からお金が借りられますか?」

 辛苦の人生を通して、日本社会への貢献は幾つもの文化賞や功労賞が物語っています。しかし、在日であるがゆえの、外国人登録証の携行、選挙権のないこと、またその生き難さを、我々に問うておられました。多文化共生・多民族共生をいうならば、「キリスト教はそこをどんなふうに考えておられます?」というのが韓晢曦さんの私への問いであったように思えました。投げられた課題です。

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 私は神戸在住の間に200回に近いご葬儀を司りました。それぞれが「神戸のキリスト教」を生きた方たちです。

 実は『近代日本と神戸教会』の「あとがき」で「神は細部に宿り給う」といった時にイメージした方々は、今日お話しした方々ではないのです。生き続ける事が出来ないで自死をした方、社会の底辺を生ききった方、若くして将来を残した死でありながら、聖書の「一粒の麦」の譬えのように、死を通して多くの方に影響を与えている方々です。それらの一つ一つの物語が私には「神戸のキリスト教」の「光」に思えるのです。そうしてこれは、「神戸のキリスト教」を生きた、また生きている人が誰でも宿している「光」です。

『近代日本と神戸教会』が問えた事は、その細部を、こんな方法もあると浮かび上がらせた事だと思っています。注意深くいわゆるイデオロギー史観を退けている事は、編集者たちの見識によるところです。特に「資料をして語らしめる」と数少ない一つ一つの資料を大切にされた武藤誠さん(関西学院名誉教授)の指導によることと、編集の実務を担当し、解説文400字100枚を書いた中永公子さんの感性によるものです。

 では、敢えて「影」というならば、それは何でしょうか。これを言ってしまうと、恐らくそれは「イデオロギー史観」ではないか、と言われそうなのですが、しかし、敢えてその批判をも恐れずに申せば、こういうことになります。

 歴史を思いを巡らす時、特に「キリスト教史」の場合、問い掛けが二つの方向からくるような気がいたします。

 一つは聖書が「福音」と表現している事態です。しかし、その「福音」を原始キリスト教から始まる「信条」(あるいは「標準文法」)に収斂させてしまわないで、近年の聖書学が明らかにしたように、歴史のイエスの「振る舞い・言葉」にまで還元して考えるということです。イエスを巡る論議の幅の広さがあります。これは専門家に任せることにします。私には、イエスの「失われた羊」の譬えに象徴されるように、疎外された側に自らをおいて歴史に関わることが最低限の「キリスト教」のメッセージであろうと信じています。牧会の根拠もそこにあります。

 その点から見る時、もう一方からの問い掛けが聞こえてきます。それは、日本の近代は「国民国家」の形成と共に「富国強兵」政策に取り込まれたということです。しかし、その枠の外からの叫びがあります。明治以降の戦前がそうであっただけではなく、戦後もその本質が底流化されています。その政策の犠牲者の筆頭は戦争犠牲者です。またさまざまに人権を剥奪され、差別された人達です。日本の民衆、沖縄の民衆、アジアの民衆の叫びがそこから聞こえます。さらに、今日のラテンアメリカの民衆(アフリカ、パレスチナなど世界各地の民衆)の叫びがあります。その人達からの問い掛けが一方から響きます。

 イエスが「批判的主体」として当時の体制や権力に関わったという「イエス理解」に立てば、私はそのようなイエス理解が自分に一番近いと思いつつ生きています。そうであれば、どれだけ私たちが現在の状況に対して批判的関わりをする事が出来るか、という問いが残ります。『近代日本と神戸教会』はそのような役目を担った『本』でない事を十分承知しながら、そこを敢えていうなら一歩踏み込んで、問えなかった、と思っています。

 でも、そのような芽を宿している『本』だとも思っています。

 ご静聴を感謝いたします。

レジュメはこちら

『近代日本と神戸教会』(1992 書籍)

あとがき 『近代日本と神戸教会』(1992 書籍)

波の輪のように(1992 教会報)