同行者《出エジプト 33:14》(2001 礼拝説教・週報)

2001.6.17、 神戸教会週報、聖霊降臨節第3主日

(牧会43年、神戸教会牧師 23年目、健作さん67歳)

出エジプト 33:14、説教題「同行者」

”主が、「わたしが自ら同行し、あなたに安息をあたえよう」と言われると”(出エジプト 33:14、新共同訳)

 これは、エジプトを脱出して、荒野の旅を続け、約束の地を目指すイスラエルの民の指導者モーセに対して、主なる神が言われた言葉です。

 ここから逆に察するに、指導者モーセは大変不安な状態にあったと思われます。

 何が不安だったのでしょうか。

 それは、かたくななイスラエルの民が、主なる神に対して叛逆を起こすかもしれないという不安でした。


 エジプトからの脱出は、エジプトの専制君主の管理と支配にある奴隷の状態からの、すなわち巨大な国家体制からの脱出でした。

 荒野の放浪は、国家とは最も遠距離にある、周辺や辺境での在り方を象徴しています。

 この放浪は、イスラエル民族をして、宗教(モーセの律法を中心として)的な、ゆるやかな契約共同体を営ませました。

 しかし、彼らはやがて国家を形成します。荒野の旅を続ける民族が、国家を形成するようになったのは、普通の歴史では発展と見なされます。

 しかし、イスラエルの歴史家は、これを発展ではなくて、エジプトの奴隷だったときの状態への逆戻りだと見ました。

 それは預言者達の系譜をひく歴史家たちでした。預言者は、国家体制が生み出す、不義・不正を批判し、神の裁きを語った人々です。

 辺境性とそこにおける対等な共同性が失われて、支配者も被支配者も、それなりに支配と従属の関係に慣れっこになり、支配者の横暴と不義がまかり通ることは、表向きに安定していると見えても、それは歴史の逆行であると、預言者の流れを汲む歴史家は捉えました。


 モーセが早々と感じ取ったのは、「エジプトに逆戻り」する民族の惰性でした。

「肉鍋のかたわらに」(出エジプト 16:13)という郷愁との戦いは、出エジプト以来のイスラエルの民族の在り方のテーマでした。

 民を率いるモーセの困惑と戦いもその繰り返しでした。指導者の孤独との戦いでした。

 彼には「わたしと共に遣わされる者をお示しにならない」(出エジプト 33:12)主への不満がありました。

 それに対して「同行者は主ご自身である」というのが答えでした。

”モーセは主に言った。「あなたはわたしに、『この民を率いて上れ』と言われました。しかし、わたしと共に遣わされる者をお示しにはなりません。あなたは、また『わたしはあなたを名指しで選んだ。わたしはあなたに好意を示す』と言われました。”(主エジプト 33:12、新共同訳)

 イスラエルの歩みは、後々の信仰者の歩みのモデルでもあります。


 加藤周一氏は出エジプトについて書いた文章の中で「人間の作る歴史が始めあり終わりのある有限の時間の中で、一定の方向性に進む非可逆的過程」の徴であると述べています。

 つまり、失敗、裁き、励まし、赦しを含めて、その繰り返しの効かない日々を生きることが、神の前での生だということです。

 それは神ご自身が同行者であることで初めて可能なことではないでしょうか。


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