2009.5.17、明治学院教会(155)復活節 ⑥
(単立明治学院教会牧師 5年目、健作さん75歳)
コヘレト 9:1-10
1.コヘレトの言葉の背景には、イスラエルの捕囚後の状況があります。
紀元前538年、ペルシア帝国クロス王は、ユダヤ人たちの祖国帰還政策を取りました。ユダヤ民族は、王ゼルバベルを先頭に帰国し、祭司エズラの指導により、紀元前515年にはエルサレム神殿を再建します。
その後、ペルシアから派遣されたユダの総督ネヘミヤは、土地を再配分し、ペルシアに納める年貢のための税金制度を作り、神殿税を整え、律法学者・祭司エズラは、律法と神殿を中心にして民族共同体の再編成を行います。
その理念は「応報の神学」(正しい者は報われる)でした。
「聖潔法典」(レビ記 17章〜26章)が基礎にされます(エズラ記 7:25-26)。
宗教法規は、律法を守る者と守れない者を分断しました。祭司は清めの儀式を司(つかさど)り、病人・障害者・外国人・(ある期間の)女性たちは不浄とみなされ、清めの儀式には高額な捧げ物が強要されました。
神殿の関係者は富み、公教育は律法を徹底し、人々は生きることに無気力にならざるを得ませんでした。
時代は変わり、エジプト王国(プトレマイオス朝)は、生産と重労働を強要し、多数の労働者の死を引き起こしました。こんな状況下で、人間の現実をよく観察をし「わたしは心を尽くして次のようなことを明らかにした」(コヘレトの言葉 9:1、新共同訳)と体制の人間破壊の現実を批判するのが、コヘレトの9章です。
”わたしは心を尽くして次のようなことを明らかにした。”(コヘレトの言葉 9:1、新共同訳)
2.万事が律法で秩序づけられる思考様式に対して「すべてのことを悟ることは、人間にはできない」(8:17)と述べます。
「神は解きがたい謎である。人間が神の道を理解することはできない。」
「神」が私物化され、弱者を分断差別に追い込むほどに「絶対化」されることの傲慢さへの問題提起です。
”その驚くべき知識はわたしを超え、余りにも高くて到達できない。”(詩編139:6、新共同訳)
同じ一つのことが、善人にも悪人にも及ぶ、宗教的領域で清いとか不浄とかいうものも全てが同等なのだ。
人間は死に向かって歩む存在である。死はすべての終わりである。そこから逆に徹底して生きることの肯定の思想が語られます。
パンを食べること、ぶどう酒を飲むこと、お祭りの時のように香油を用い、清々しい衣服を着ること。愛する妻と楽しく生きること、それが人生の報い(コヘレト 9:7-9)。
”あなたの業を神は受け入れていてくださる。”(コヘレト 9:7、新共同訳)
人生そのものが神の無償の恵みであることをコヘレトは語ります。
働く喜びは今なのだ。
”何によらず手をつけたことは熱心にするがよい。”(コヘレト 9:10)
コヘレトは現在を生きることを勧めます。これは刹那的現在ではなく、無償の恵みの現在。生かされている現在。共生の自覚の現在です。
”その日の苦労は、その日だけで十分である。”(マタイ 6:34)
とのイエスの言葉を思い起こします。
3.私は最近、山本爽起子著『雲と火の柱 − 私の聖書との出会い』(コイノニア社 2009)の出版に関わらせて頂きました。彼女は49年間、宮崎県の辺境で「今」を生きている牧師です。
その中で、コヘレトから得られた認識に触れた箇所があり、次のように語っています。
(サイト記:引用が正確ではないと判断し、引用部分の記載は割愛しました。PDFにはそのまま残してあります)
155_20090517◀️ 2009年 礼拝説教