書評『主の祈り』(1991)

『主の祈り』レオナルド・ボフ著、山田経三訳(1991 教文館)
「本のひろば」 1991年12月号掲載(キリスト教文書センター)

(神戸教会牧師、健作さん58歳)
BOX-2. 個人所蔵史料(書籍等)

 今日も朝早く、いつものように
 こどもたちが、野犬と競っている、
 生ゴミをあさる権利をめぐって
 両者は入り乱れ、バケツから残飯を拾い上げる
 そして結局、犬とこどもは、
 悪臭を放つ残飯を分かちあっている
 ……こどもたちと野犬のような
 飢えた者たちとそれを分けあった時にだけ、
 糧はその良き味を取り戻す
 (本書 p.146)

 このような詩の言葉が、日常的であるラテンアメリカをはじめとする第三世界の人々の苦悩の視点から、レオナルド・ボフ(Leonardo Boff 1938-、ブラジル出身の「解放の神学」者)は「主の祈り」を解説します。

 学識豊かな著者は、カトリックの、さらにはプロテスタント側の幾多の神学的・聖書学的成果をふまえつつ、キリスト教の中心的教説と聖書の神学思想に従って説き明かしつつ(本書での旧新約聖書の引照は「聖書素引」によれば500余箇所に及ぶ)、宗教的還元主義(神学主義)や政治的還元主義(世俗主義)の危険に陥らないように注意しつつ、講解します。そこには、カトリック教会の「第二バチカン公会議(1962-65)」の①開かれた教会、②対話の教会、③貧しい人々優先の教会、への変革の方向性が背景となっています。分かりやすさ、内の充実さに心を動かされた山田経三司祭の情熱を込めた翻訳が本書を誕生させました。

 内容は、11の章に整理されて展開されています。第1章「完全なる解放の祈り」と第2章「真の意味で主の祈りを唱える」が総論になっています。「主の祈り」は歴史的イエスの実存的衝撃が根底となり、「神の国」への約束と参与への促しであると。第3章「天におられるわたしの父よ」では、「アッバ(おとうさん)」の呼び名の新鮮さに始まり、フロイトやニーチェの父権性神信仰への批判を受け入れて、それにも応えつつ、さらに「主の祈り」の「父」が、男と女という性別用語で限定づけられない「父と母」いずれの表現も、同一の根源的リアリティーを指すことに触れています。第4章「御名が崇められますように」では、存在論的には遠い(聖なる)神が、倫理的には近い(聖なる)神であることが説かれています。第5章「御国が来ますように」。イエスの神の国の特徴が、世界的・構造的・決定的と3つの特徴で示され、その到来の基準で絶対に見逃せないことは、貧しい人々に正義が届いた時である、とされています。第6章「御心が行われますように」。人間の社会関係において聖化を実現する新しい天地の発酵が示されます。

 第7章〜第10章の、いわゆる人の必要に向っての4つの祈りには、著者の信仰と情熱そして研究が一層傾けられています。パンを歴史世界における神の国のシンボルとして、パンの背後に闇と光の人間の関係性の全体を見通し、そこに秘蹟的(サクラメンタル)な意義と豊饒さを捉えるところに、世の不義と戦う力の根源を示しているのが第7章「わたしたちに必要な糧を今日与えてください」。第八章「わたしたちの負い目を赦してください」では、赦しが神の体験の新しい側面だと示されます。第9章「わたしたちを誘惑に遭わせないでください」。歴史を覆う巨大な否定、悪の攻勢に打ち勝つイエスの力が説かれます。第10章「悪い者から救ってください」。ラテンアメリカの深刻な構造悪を視点として、そこに苦悩する人々の救いが切実に、祈られています。第11章「アーメン」。イエスにおいて「然り」となった地上の神の国の到来への確信と、神への委ねが説かれています。以上は「訳者あとがき」の心ある「的め」をも参照にした私のまとめです。

 本書の特徴は、神を認識論的には、貧しい者と手を結ぶ神として語っているところにあります。それは存在論的には「言語を絶した」存在、同義語のない「言葉」、影を作らない「光」、測り知れない「深み」の存在のもとにある神(本書 p.94)を指示することと対になっています。そこには著者の歴史経験があり、倫理的に神に倣う生き方の真摯さがあります。同時に「神の啓示を飼い慣らし」正義を求める渇望に薄い「教会」や「教義」への鋭い批判があります。このことは私たち日本の教会も聴かねばならないでしょう。いわゆる「社会の問題」は神認識に欠かせない領域なのです。「父なる神が、現在最も腹立たしく思われ、ご自分がないがしろにされていると感じられている部分は、この社会の領域である」(p.204)。

 一点気づいた事は、数多い聖句引用が、神学的に過ぎる場合、聖書学の言う歴史的文脈と乖離することがあるのではないでしょうか。例えばマタイの「いと小さき者」(p.136)は必ずしも当時の被抑圧者を意味してはいないことなど。

(岩井健作)

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