神の贈り物《ヨハネ 3:16》(1991 クリスマス・燭火讃美礼拝・説教要旨)

1991.12.24(火)、神戸教会
クリスマス燭火讃美礼拝 午後7時半〜8時半、470名
(1991年12月25日 ソ連邦崩壊、前夜の礼拝)
1992年1月5日週報に説教要旨掲載)

(神戸教会牧師15年目、牧会34年、健作さん58歳)

クリスマス讃美礼拝(1991.12.24)
 説教:ヨハネによる福音書 3:16「神の贈り物」岩井健作
 指揮:阿部恩兄
 合唱:神戸教会聖歌隊
 奏楽:瀬尾千絵姉
 アンサンブル:シュピールドーゼ

 ”神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった。
 それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである。”
 (ヨハネ 3:16、口語訳)


 聖書はイエス誕生の意味について多様な捉え方をしている。

 マタイは、東の博士たちを登場させることにより、ユダヤ人には隠されていたが、異邦人には露わにされたイエスを示す。

 ルカは、飼い葉桶や羊飼いのシンボルを用いて、片隅にいる者、はみ出している者への福音を語る。

 ヨハネはどうか?

 ヨハネ3章16節「御子を信じる者はひとりも滅びない」。

 その根拠としての神の「贈り物」が、イエスの誕生であることを告げる。


 ドストエフスキーは『罪と罰』の始めのところで、マルメラードフのセリフとして、この飲んだくれが神の救いにあずかるのは、自分が救いに値しないと思っている故なのだ、と述べている。

 彼一流の逆説的救済観である。

 聖書の救いについての教えは、自分の力によって救われるのではなく、ただ神のゆるしと恵みにあずかることが中心だという。

 このことを別の言葉で言えば、神の前での徹底した委ね(審き、ゆるし、聖化)が求められる。

 そこでは、自己中心からの翻(ひるがえ)りが要る。

「御子を賜わる(与える)」とは、その転換を神自らが示したことを意味する。

「与える」は「捨てる」と同根の言葉である。

 日本語でも、宗教用語としての「喜捨」(寄付すること)は、与えることを「喜んで捨てる」と表現している。


 聖書では、ピリピ人への手紙2章6節〜7節が、次のようにいう。

 ”キリストは、神のかたちであられたが、神と等しくあることを固守すべき事とは思わず、かえって、おのれをむなしうして僕(しもべ)のかたちをとり、人間の姿になられた。”(ピリピ 2:6-7、口語訳)

「おのれをむなしくする」ことは難しいことだが、神がその筋道を自らつけて下さったことが、「神は御子を与えた」ということに他ならない。

 この筋道のつけ方こそが、神の贈り物である。


 神の前に謙虚になれれば、人に対しても謙虚になり得る。

 ここには、倫理に優先する福音がある。


 クリスマスによく読まれてきたお話に『クリスマス•キャロル』がある。

 作者ディケンズは、1812年に生まれた。

 この頃、産業革命で貧富の差が激しくなった。富を持つ、傲慢な者への警告として、彼は主人公スクルージに、彼の友人マーレーの幽霊が、彼の「過去・現在・未来」を見せることで、反省を迫る。

 スクルージは、ここで謙虚さを学び、新しい人間へと変えられる。

 クリスマスは謙虚さを取り戻す日であり、このことの可能性を、神が与えられた日である。

(1991年12月24日 説教要旨 岩井健作)


1991年 説教

1991年 週報

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