ブラジルで思い巡らした事 - 解放の神学から問われる日本の教会の諸問題(2005 ブラジル)

2005.2.12、第5回「寿・神学の集い」
「解放の神学と解放の現場」-ブラジルと日本を結ぶもの-

(日本基督教団教師、71歳)

はじめに

「ブラジルに行きませんか」という渡辺英俊さんの招きでこのたびの私の思い巡らしは始まった。

 大きな旅なので一晩「祈って」同行を受けた。何故か。「そこには出会いがあるから」と信じたゆえに。「出会い」は、素朴な意味での、人との出会いであるが、また同時にそれは人を通しての「事柄」との出会いである。

 このたびの「事柄」は「解放の神学」であった。大倉一郎さんと高橋弘さんの共訳の『入門 解放の神学』(レオナルド・ボフ、クロドビス・ボフ著、新教出版社 1999。以下『入門』)に、こんな言葉があったのをおぼろげに思い出していた。

「解放の神学は一つの神学運動ではなく、運動する神学なのである。したがって、ラテンアメリカの神学は、解放の神学の源泉であるとかあるいはその焦点であるというより、むしろ控えめに言うならば、解放の神学のささやかな促進剤であり、比較的ダイナミックな一部分なのである。」(p.146)。

「解放の神学」が一つの体系であるとは思っていなかった。だから、もしかすると運動とその担い手に出会えるのではないかという期待があった。そうして、それは「渡辺英俊さんの今日まで(『旅人の時代に向かって』新教出版 2001/1 、参照)」との出会いを含めて、その言葉にたがわなかった。

「解放の神学はイエス・キリストがなさった愛の理想ともいえる約束を生き生きと保つということであり、友愛の世界、つまり民衆の間に神が『天幕を張る』ことを可能にする場なのである」(p.156)。

 ブラジルでそれを垣間みさせて戴いた。 以下は、日頃の思いを網羅的に羅列しつつ、ブラジルの旅での思い巡らしを少しずつ時間をかけ整理してゆきたいと思っているメモである。これが、今日の「神学の集い」の午前の渡辺、小井沼両氏の発題と午後の福原氏、武田氏の二人の教会人の地道な現場での「応答」との間をつなぐものとしての私の役割であればと願うものである。今日は[I]のみのメモにとどまる事をご容赦願いたい。

I、「人間と社会の現実に向き合う」-貧しさの認識の問題

Ⅱ、「グロ-バリゼーションと国家体制の強化」-民衆管理への抵抗の問題。個別課題での闘い、およびその連帯の問題。

Ⅲ、「神学への姿勢」-民衆と苦悩を共にする神学の在り方。体系の神学から運動する神学へ。多くの日本の教会が、主として依拠してきた、体系としての神学(教義の大要、信条・信仰告白、あるいは大貫隆氏の言葉での「基本文法・標準文法」から世への関わりを演繹する思考の体系)を脱構築・批判止揚して行く営み。

Ⅳ、「聖書の読み方」-聖書の歴史的文脈と現在の歴史を生きることとの呼応関係の総合としての聖書の読方。説教(使信、証言)の在り方と、それに呼応する共同体(教会)での聖書学習の在り方。

Ⅴ、「牧会(司牧)のありよう」-解放の神学での一貫性から学ぶ。

Ⅵ、「『教団』の現状を憂う」-なぜ制度中心の教会なのか。歴史を捨象する教会から、歴史を生きつつ宣教を中心に据える教会への「体質改善」を求めてのたゆまざる闘い。解放の神学への呼応。

I、「貧しさ」からの問い

1.少年時代、日本の敗戦直後の貧困を「食べるものがない」と体験した記憶がないわけではない。しかし、このたび見聞したブラジルの「貧しさ」はそれとは比較にならない構造的貧しさであった。貧しさとは何か。『入門』では

「悲惨な事実(スキャンダル)の認識を……10億の人々が絶対的貧困のなかで暮らしている。……15億の人々は基本的医療を利用できない。……5億の人々は年間所得が150ドル以下である。……20億の人が水の供給をいつでも受けられない……」(p.16)

 と述べる。加えて

「貧しい人々の概念を……人種主義的抑圧(黒人)、民族的抑圧(先住民・マイノリティ)、性的抑圧(女性差別)……さらに多くの抑圧(子ども、少年・少女、老人)……」に広げ、そこに社会的・経済的(階級的)被抑圧の構造を重ねて捉えている(p.59)。

 他の身近な資料によれば、衣食住など人間生活の基本的必要(ニ-ズ)を充足していない低所得水準(1971年価格で所得75ドル以下)を「絶対的貧困水準」という。……一人当たりの所得が 250ドル未満の低所得開発途上国では人口の52パ-セント、6億3,000万人。 250ドル以上の中所得国では人口の16パ-セント1億4,000万人。南の世界の37パ-セントが此の水準であるという。

 21世紀初頭、63億の地球人口中一割が飢え、10億が基本的必要を満たしていない。つまり「絶対的貧困」が16億いるということになる(参照『貧困-21世紀の地球』西川潤、岩波ブックレット 1983, p.29)。

 ブラジルは平均所得が日本の十分の一(貧富の格差を考慮すると実際多くの人は三十分の一くらいになる)。失業率は全国11パ-セント、サンパウロは20パ-セントに近い。世界金融資本の収奪に晒されている開発途上国。極貧の人々が、大都市周辺に形成しているファベイラ(スラム)の状況は、サンパウロ市郊外のファベイラ・サンタ・イネスには1万3,000人が住む。9割が東北部の農村を棄てて来た人たち(伊藤千尋『燃える中南米』岩波新書1988, p.142f)。ブラジルでは、1割が上層階級、2割が中産階級、後の7割は、下層といわれる貧しい人達。貧富の格差だけいえば、ブラジルは世界で2番目。統計資料(小井沼国光著『先駆ける「煉国時代」のブラジル』)アメリカを 100とした国民総生産は日本では49.2、ブラジルは2.6。一人当たりの所得はアメリカ34,733ドル、日本34,700ドル、ブラジル3,550ドル)

2.貧困の問題は、絶対的貧困と貧富格差の両面をもつ。

 富める国、米国には324,000人のホ-ムレスと50万人の食に事欠く子供がいる(『貧困』タリ-ブ・ガ-レイクス著・斉藤聆子訳2000 星の環会 p.56)。現今は、これに、経済グローバリズムの奔流が防波堤無しにその貧困を襲う。

 内橋克人氏(経済評論家)は

「世界をおおう金融システムとその上に乗って自己増殖しながら疾駆する『貨幣』は、人間労働の成果と自然を含む価値高い資源を、貧しい国から富める国へと移す道具になっている。本来の役割を変えた貨幣は『利を生むことをもって至上とするマネ-』となった。この変質する貨幣の全体が『エンデの遺言』(NHK番組)に凝縮されている。エンデは予言している。『今日のシステムの犠牲者は、第三世界の人々と自然に他なりません。このシステムが自ら機能するために、今後それらの人々と自然は容赦なく搾取され続けるでしょう』。今日、世界をめぐるマネ-は 300兆ドルといわれる(年間通貨取引高)。地球上に存在する国ぐにの国内総生産(GDP)の総計は30兆ドル。同じく世界の貿易決済に必要なドルは 8兆ドルにすぎない。この巨大な通貨の総体はコンピュ-タ-で自由奔放たる『商品として売買される通貨』として『世界市場化』(グロ-バライゼ-ション)を前提に世界のすべての地域に襲いかかる」(『<節度の経済学>の時代』朝日新聞 2003, p9-10)。

 ブラジルにおける資本はほとんどが外国資本である(小井沼国光氏談)。それゆえグロ-バリゼーションの波を受けることは避けがたい。この国の貧困は世界を覆う構造的貧困である事を忘れてはならない。それは同時に日本の現実をも襲っている。その加害者性・収奪の力と被害者性・被収奪の現実の両面に向き合う事なくして、貧困との闘いをたどる事はできない。一方において「経済大国」の北半球に位置し、他方において貧富格差を進行させざるを得ない経済政策に晒されている現実のなかで、自分の位置を認識する事を除いて、貧しさの問題への関わりはないであろう。日本の教会はほぼ中産階級で構成され続けてきた。「絶対的貧困」と「貧富の格差」をどのように受け止めるのか。そこに「解放の神学」からの問いがある。

3.闘う人々。

 ブラジルでは構造的貧困というゴリアテのごとき巨人と素手で闘う少年ダビデのごとき民衆とその民衆と悩みを共にする教会の「解放」への働きと闘いに出会った。

「『解放』は、その言葉の元来の意味からすれば『福音的』な用語である。すなわち『解放』はいのちを産みだす言葉であり、よき知らせ、喜びに満ちた告知である。……イエスの神の国という思想と同じである」(『入門』p.157-158)。

 出会ったカトリック教会、メソジスト教会では、神父、牧師、教会の信徒が、極貧の人達の苦悩を共にしてる。それは、神は貧しい人達の苦悩と共に居ましたもう、福音本来の信仰の在り方。運動する神学が「解放」に参与している姿があった。

「貧しい人達は幸いである、神の国は彼らのものである」(ルカ 6:20)という言葉は、極貧の人そのものの言葉ではない。極貧に付きそい、苦悩を自らのこととするものの言葉。イエスは極貧層ではない。大工の子であり、律法を学び、教育を受け、言葉で「神の国」を語る者。神により頼む以外に生きる術のない人々に寄り添い「神の国」そのものを逆説的に見た。イエスの言葉は、解釈の入る余地がないほどに「貧しいものは幸いだ」

 と逆説的に言い切る。 ブラジル南西部で地域総合的社会事業に取り組んでいる佐々木治夫神父は、日本からブラジルの司祭になって47年。地域の貧しい人々を引っ張り、呼び覚まして人間回復の業に取り組んでいる。

「貧しい人々は幸いですよ。希望に生きています」といわれていた。それは「神の国」が生きている実感の言葉があった。

4.教会の歴史の中では、社会の貧しさを見つめる事に耐えられず、「貧しさ」を「心の貧しさ」に置き換えてしまう動きがあった。

 ごく初期にはマタイ福音書は「心の貧しい人は幸いである。」と言い換えた。神の前での謙虚という事は、また別の問題。「貧しさ」をそこに持ち込み、人間が生み出した悪としての貧困から目をそらしてしまう。 ブラジルでは、ペンテコステ派の教会が盛ん(1600万)である。宣教資金にアメリカの企業の後ろ盾があると側聞した。マタイの「心の貧しいもは幸いだ」の系譜を思う。他山の石としたい。

5.日本は、富が一部の人に集中する傾向が増大し、貧富の格差が開いている。

 3/4の富を、1/4の人が持っているという(内橋談)。国連開発計画の「人間開発論」にある言葉は

「貧しい国々が自らを豊かにする道は、グロ-バリズムに追随することによってではなく、またそのおこぼれにあずかろうとすることでもなく、人間が人間として持つ潜在力を現実に有効な高い能力に変えていくことによってのみ可能だろうというのである。」

「国民国家が成立する以前に、それぞれの地域がもっていた特色を軸にしながら、コミュニティ-に根ざした人間開発によって復興した文化を、国民国家の枠組みを超えて人類のために発信していくということ。経済発展の本質は、人間が人間としての能力を高めていくことが基本のなるという認識です。」(神野直彦・東大教授『世界』2002/1月号、内橋との対談)。

 佐々木神父の「フマニタス慈善協会」の事業が希望に開かれているのは、農民の土地闘争やプロポリス事業を含む地域経済への依拠の方向を包含しているからであろう。