経験の中の恵み(2005 兵庫教会・説教)

2005.2.6、兵庫教会礼拝説教

(前川和教会代務牧師 -2004.3、健作さん 71歳)

聖書 ヨハネ 15章1節−10節
讃美歌 361(この世はみな)、521(とらえたまえ)

兵庫教会 神戸市長田区(2005 教会と聖書20)

 今日は、皆様がよくご存じの聖書の「ぶどうの木」の話を選んで読んで戴きました。大変有名な聖書のお話ですから、信仰生活の長い方は心に残る読み方を何回もなさっていると思います。

 この物語が書かれた時代、ぶどう園は、輸出産業として都市の大地主によって経営されていることが多かったようです。マタイ福音書の20章の葡萄園の労働者のお話のように、貧しい人達は季節労働者としてだけ、ぶどう作りに関与したことが多かったのだとは思います。ですから「ぶどう」というとその当時の社会構造が嫌でも思い浮かんでしまいます。丁度日本の近代が「絹」という言葉に「女工哀史」を連想するような具合です。しかし、そのような社会構造をイメージさせる言葉ももう一歩突っ込んで考えると、たとえ雇われ人であっても、ぶどうの木には愛着や関心を持っていたに違いないだろうと思います。まして、自作農は、ぶどうの栽培をしていたから、木の成育にはわがことのように愛情を注いだに違いありません。そうして、丈夫な木を栽培することが収穫を左右することは誰でも知っていたと思われます。

 今日のお話しの中の5節では「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である」(5節)と、ここではことさらにイエスが木の幹であなた方が枝だということが強調されています。これは、このヨハネ福音書の読者は、きっとぶどう作りの経験があった人が多かったのだと思います。

 ここで言われている「あなたがた」とはこの福音書の読者です。「ヨハネの教会のメンバー」と言っても良いと思います。当時、ヨハネの教会のキリスト者たちが、どんな状態に置かれていたかということは、この福音書自身が記しています。9章22節を読みますと「ユダヤ人たちは既に、イエスをメシアであると公に言い表すものがあれば、会堂から追放することに決めていた」とあります。会堂から追放する、とは「村八分」にされることでした。地域生活でのお付き合いをしないという迫害です。このぶどうの話がユダヤ教徒からの激しい迫害にさらされていたキリスト教徒に語られた言葉だということをまず心に留めておく事が大事です。

 著者はこの迫害に耐える力、迫害への防御を「つながる(メノー)」という言葉で言い含めます。これは「とどまる、待つ、残る、住む、続ける、生き永らえる、生き残る、宿る、泊まる」と訳される内容を持った、生活用語です。新約聖書中118回用いられています。うちヨハネ文書には67回(ヨハネ福音書に40回)出てきます。この箇所にはそのうち5回出てきます。ヨハネ福音書には、キーワード、つまり「鍵」になる言葉がたくさんありますが、この語は、その特徴の一つです。訳が示しているように、待つ、とどまる、つながり続けるという、時間概念の意味が強い言葉です。
 イエスと信者だけではなく、神(イエス)と人とのつながりを意味します。そうして、そのつながり方に特徴があるのです。
 その一つは、そのつながり方とは、長い時間の経過のなかで経験されることです。
 もう一つは、相互性ということです。両方の有機性ということでしょうか。幹があって枝があるのですが、逆に枝があって幹があるというつながり方です。樹木の剪定の時でも、枝を余りきり過ぎると幹も枯れます。
 雑踏で母が子どもに「お母ちゃんの手をしっかり握っときや」と言っているのと同じで、相互関係を意味しています。太平洋戦争の空襲の最中に母親が子どもの手を引いて逃げる時、阪神大震災の時に倒れた家屋や火災をくぐって母が子どもの手を引いて避難する時、母も子どもの手をしっかり掴んでいるけれども、子どもも母から離れないように、しっかり握っていることが大事でした。
 ヨハネはそのつながり方を表いあらわすのに「ぶどうの幹と枝」というイメージを用いました。そのイメージは相互性を示しています。

 イメージは物事を伝える豊かな方法です。
 聖書の福音書を読むと、神が人々にどのように関わり、つながっていて下さるかが、いろいろなイメージで語られています。
 例えば、魚を捕る漁師の話、宴会の話し、花婿花嫁の話、麦の譬え、種蒔きの話、収穫の話などがあります。
 ヨハネ福音書は、特にそのようなイメージを多く用いて語っています。
 光と闇(イエスの出現 −1章)。風(ニコデモに霊について語る −3章)。水・泉(サマリヤの女の話し −4章)、大麦のパン(五千人に食べ物を与える話し −6章)。羊と羊飼い(イエスは良い羊飼い −10章)。そうして、この15章は「葡萄」です。
 イメージとは「姿」「画像」「象徴」などという意味です。この言葉の語源はイマジネーションです。「想像力」という意味です。思い浮かべる力。それは、既に経験している事を通じて、経験を超えた世界へを心に描いていく事です。

 聖書は、ある意味では、イメージを与え、そこからイマジネーション、想像力を促す書物です。

 想像力を育てるという事は、教育においてもとても大事な事です。私は、幼稚園の園長を長いことさせて戴きました。子どもからたくさんの事を教えられましたが、その一つは想像力をめぐらすという事です。
 冬のある日、雪が降ってきました。窓からそれをじっと眺めていた子どもが、「白の国と黒の国が戦争をしているの。さっきまで白の国が勝っていたけれど、黒の国が勝っちゃった」。雪が小降りになったら、道路の上の雪は溶けて、また道路は元の様になってしまいました。少しすると、また雪が積もり始めました、飽くことなく見ている子どもは、もう絵本の世界に入り込んでいる様にお話が湧きでてくるのです。

 子どもと一緒に生活していると、絵本『葉っぱのフレディー』の世界ではありませんが、紅葉した一枚の葉っぱにたくさんのことをイメージする促しを受けたり、本当に豊かな心を与えられます。そのような子どもに出会うとそのような感性を持つ子どもを育てている母親、あるいは家庭があるという事が驚きです。
 聖書を読むということは、そこに「救い」を与えられることなのですが、ヨハネではそれがどのようになっているかを教えられます。ヨハネは、周囲の状況が「救いは律法にあるのだ」というユダヤ教の渦の中で、救いは神の愛にある、ということをイメージによって示したのです。それは、救いが現実の生活に食い込んでいることを示しています。律法や倫理の努力ではないのです。どれだけ想像力を広げるかの問題なのです。

 ヨハネの教会のおかれている状況は厳しいと申しました。ユダヤ教も当時ローマとのユダヤ戦争によって陥落したエルサレムを逃れてヤムニヤで会議を開き、ユダヤ教会堂の再統合と正統主義を確立して、律法を厳格に守る律法の宗教という方向で、引き締めを行っていました。異端を排除するということもその一環です。それでヨハネのキリスト教徒への迫害があったわけです。律法の方向に向かう引き締めは、厳しい方向に行きます。管理・取締体制です。 それに対して、ヨハネ福音書の引き締めは、「恵みの原点」に帰れという促しです。ユダヤ教では神の救いは律法で示されるのですから、問題は律法をどれだけ守るかが大切です。それは律法厳守でした。そこからは膨らみも、潤いも出てきません。現代への連想に翻訳すると「管理の強化」か「個性の尊重か」という闘いです。今、政治では「教育基本法を変える」ということが大きな争点です。一番の争点は、個人の尊厳よりも、国家に従う人間に重きをおく、ということです。

 ユダヤ教の在り方に対してヨハネは、個人の描くイメージを大切にします。「私はまことのぶどうの木」という様に、「ぶどう」のイメージそのものに「救い」を示しているのです。枝より先に既に木が在り、幹が存在している事は、ぶどう作りには当たり前のことです。

 ヨハネはそれを信仰の論理としても筋道を述べてています。
「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。」はヨハネ福音書の書き出しですが、それは「枝」に対して「幹」が初めに存在するように筋道です。
「私たちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して」(第一ヨハネ 4章10節)というのは、ヨハネのテーマです。現実は厳しいけれど、その筋道は変わらないということです。

 聖書には「招きと応答」というテ−マがあります。神が招き、人がその招きに応える、という事ですが、この順序は逆にはなりません。「招き」が先にあって「応答」が自ずと続くということです。ヨハネも言葉で言えばこのテーマを言っています。神の招きにしっかりと応えなさい。9節ではこの事を「父が私を愛されたように、わたしもあなた方を愛してきた。わたしの愛のうちにとどまりなさい」。この「とどまる」はさっきの「つながる」(メノー)という言葉と同じ言葉です。言葉で表現すれば、「神の招きにとどまれ、しっかり応答しなさい」なのです。しかし、それを「ぶどうの枝の幹につながる」イメージで語るところがヨハネです。ぶどうの実の豊かさを想像する広がりがあります。イメージで伝えることにヨハネの特徴を見ないならばここの箇所は真意を捉え切れません。

 信仰の論理でいわれていることを、もう一度生活経験で再解釈することを促すのが、イメージを呼び覚ますことです。

 先般、伊豆半島の宇佐美教会の教会修養会に招かれました。一人の老婦人の証しとして書かれたものに出会いました(『宇佐美教会50年史」』)。「わたしと教会」という文章です(原田英子さんの文章)。この方は若い時に洗礼を受けます。「母にすすめられるままに、洗礼がどういう意義をもつかも知らずに、洗礼を受け……」とございます。洗礼が恵みの徴だぐらいのことは聞いていたと思います。そうしてあとの方には「特別な子供を授かって十年(これはダウン症候群のお子さんです)、私の信仰は何回か挫折しながら、この子と共に成長して、今、イエス様に信仰の根が、やっとしっかりと張ってきたところです。……」とあります。「根が張ってきた」という表現が重みを持っています。この地方は蜜柑作りをしている農家が多いのです。果樹はまず樹を作らねばなりません。「根が張る」とはその実感があります。そこ実感が信仰生活に出ています。ぶどうの幹と枝が年月を掛けてつながっているというのはこういう事だなと思いました。

 神戸の著名な洋画家小磯良平さんの絵画には沢山のぶどうのイメージが出てきます。豊かさの表現としてこれを用いています。この人も作品を通して聖書の命の豊かさを現していることを覚えます。

 私たちが、何気なく経験している日常の出来事に、神は語りかけておられ、また宿りたまう。それを通して神が私達に寄り添っていていて下っていることを覚えたいと思います。私達の身近な恵みを受け入れていきたいと思います。

祈ります。

 神様、兵庫教会の皆さんと礼拝が持てて感謝いたします。
 私たちの日常生活に与えられている、様々な出来事は、きっとその中に、イエスの恵みが満ちあふれています。現実が暗いものとしてだけ見える時にもきっとあなたはそれを通して語っていて下さいます。どうか、その徴を、見通す力をお与え下さい。主イエスの御名によって捧げます。アーメン

切なる叫び ー1( 2004 兵庫教会・礼拝説教)