命の道を生きる(2005 阪神淡路大震災から10年・新潟県中越地震から3ヶ月)

2004年 関東教区 群馬地区大会
講演要旨「地区だより」に加筆
(新潟県中越地震 2004.10.23、M6.8 震度7)
(2005年版『地の基震い動く時』所収)

ヨハネ福音書 14章25-31節

人の温もりをつなげる

 群馬地区の皆さん、昨年11月の信徒大会では阪神淡路大震災での私の拙い経験をお聞きくださりありがとうございました。

 「地震の経験を聞く」という地区集会のテーマはあらかじめ「委員会」で決められていたのですが、その後で、中越地震が起こりました。

 驚きです。急遽、群馬地区の塚本牧師・橘牧師のご案内で、中越被災地のいくつかの教会の問安に同道させていただきました。

 阪神で経験したことが体の奥底から揺さぶり出されました。

 幾世代にも渡って築かれた田畑という生産手段が壊滅的な打撃を受けていることや、やがて重い雪の季節が来ることは阪神にはなかった深刻さです。

 群馬地区が救援活動を積極的に組まれ、十日町の新井牧師のセンターをバックアップされていることを知り、励まされました。

 私は現在神戸を離れている者なのですが、地震では今も繋がっています。

 今年の1月16日、阪神大震災10年では、神戸の被災者連絡会主催の震災シンポジウムに、鎌田慧さん、熊野勝之さんなどと共にパネラーの一人として参加いたしました。

 その折「復興住宅住民」被災者の実情を調べた市民団体(キリスト教を含む)の調査を読みました。

 「10年で復興支援打ち切り」の施策が出ている中、弱者としての被災者の生活、居住、健康、就労などは改善されるどころか、生きることへの不安がさらに深くなっているということを知らされました。

 だからこそ、それを上回る人間と人間のつながりの温もりが一層大切だと痛感いたしました。

 命を生きることは、人と人との関係の暖かさにつながり、またつなげることです。

 キリスト者にとっては、神の愛を信じ、神に望みを置くこと、イエスに従うことから与えられます。

 先般のお話も、結論はそのことを述べさせていただいたと思っています。

震災で見えた二つの生き方

 さて、午前の講演では、はじめに「現象」としての地震と「出来事」としての地震ということを申し上げました。

 これは、起こったことを主体的に受け止めて、自分がどう関わるかという問題です。

 それから、地震で兵庫教区の教会的体質があらわになったと申しました。

 「山の手」住宅に立地する神戸・阪神間の教会と、激震帯状の「浜側」の底辺居住者地域との歴史的差異は歴然でした。

 その底辺被災者と共に、その目線の低さで行動した「兵庫県被災者連絡会」と教会が連携をとったことは良かったと思っています。

 また、兵庫教区が地震の経験から自覚した「教会と地域の関わり」を信仰の事柄として「阪神淡路大震災被災教区の震災5年目の宣教に当たっての告白」を決議したことも良かったと思っています。

 日本基督教団は、まず地域活動のため2億8千万円、被災教会への会堂再建募金活動(全壊15教会)を三期に分け、4億2千万円行いました。

 中央と現地の軋轢はありましたが、兎にも角にも救援で支えられたことは恵みでした。

 さて次に、地震で露わになった二つの生き方(思想を持つか、持たないか)に触れました。

 一つは、助け合って生きる生き方、幅を広げていく生き方、これは愛と正義の実現を目指す生き方です。

 民衆の知恵に重きを置いて、街(人々のつながり)を作り、創意あるボランティアを活かす。

 兵庫教区は、このことを「教会の復興は地域の復興なくしてはあり得ない」との思想としました。

 もう一つは、秩序の回復・再建を主とする生き方。

 形成と管理を優先させ、ボランティアを行政の補完と考える。

 これは行政主導で秩序中心の生き方でした。自分の思想を放棄して、権力の範囲で事柄を考える生き方です。

 教会もその内側で、愛の模索か秩序の支配下かのどちらかに引っ張られ、揺れ動きました。

 地震という「地の基が震い動く時」には、社会でも教会でも、普段持ち合わせている固定的考え方が揺さぶられます。自分のところだけ守ろうという体質が露わになりました。


 聖書になぞらえて言えば、例えば、マルコ福音書10章に出ている、教会の内側に偉くなりたい弟子たちがいたということです。

 「一番上になりたい。民を支配している偉い人たちが権力を振るっている」(同42節)。上昇志向型、△三角型、閉ざされた志向型の生き方です。

 もう一つは、「全ての人の僕になる。仕えるために、自分の命を捧げるために(43-45節)、互いに足を洗う(ヨハネ)。下降志向型、受苦型、○丸型、開かれた志向型の生き方です。

 イエスご自身は、愛の実現の方向、○丸型の生き方に人々を促しました。

 失われた羊(ルカ15:4)、最も小さい者の一人に(マタイ25:34-45)、招かれた客たち(ルカ14:15-20)、よきサマリア人(ルカ10:30-36)、葡萄園の労働者(マタイ20:1-15)、ラザロと金持ち(ルカ16:19-26)、普段聖書で読んでいるところです。

 我々の教会は、地震を経験して、教会の進むべき道は○丸型の方向だと鮮明に示されました。

 これは恵みの出来事です。

 命の道を生きる生き方とは、このようなイエスが生涯をかけた振る舞いで示された、福音的あり方そのものです。

 地震はそれを私たちに促したことをしみじみ思います。


 さらに、午後の講演では「不条理の死や貧しさを生きる命」についてお話ししました。

 阪神淡路大震災では6433人が亡くなりました。

 この不条理の死を、生き残った者たちがどう受け止めるか、宗教者は死者を単なる「儀礼」や「宗教的」意味付与で終わらせてはなりません。

 死の意味を現在化して、生き残った者が死者への「罪責」(災害・現代戦での不条理の死が告発している人間の罪責と同質)を負いつつ、なお許されて生きることが大事です(「群馬地区だより」、社会部主催「平和集会」、「原爆の図 丸木美術館を訪れて」伴明子さんの文章に記されている自覚です)。


 地震以降、私は「流れる時間・過去の過去化」で考えられてきた思想や文化を「流れない時間・過去の現在化」に転換していくことの大事さに思いを巡らされています。

 言い換えれば、それを成さしめる力を信じて生きることです。

 「父が私の名によってお遣わしになる聖霊が、あなた方に全てのことを教え、私が話したことをことごとく思い起こさせてくださる」(ヨハネ14:26)。

 祈ります。

 神よ、中越地震で被災し、途方にくれ、苦難のどん底にある人たちを支えてください。

 被災の中にも絶えない人の温もりに、あなたが宿っていてください。

 それを信じて救援活動に励む、群馬地区の信徒・牧師の皆さんを祝福してください。

 主イエスのみ名によって祈ります。

アーメン

(岩井健作)


避難所となった小千谷市総合体育館前、炊き出し。ガスではなく薪。2004年10月28日 (Wikipedia)
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