1998.12.20、神戸教会、待降節 ④ クリスマス礼拝
/1995年1月の阪神淡路大震災から4年
(牧会40年、神戸教会牧師 20年目、健作さん65歳)
マタイ 2:1、ローマ 1:2-4
“その時、占星術の学者たちが東の方からエルサレムに来て”(マタイ 2:1)
今年の聖誕劇では、ゆり組の4人の子たちが東の国の博士たちに扮して、しずしずと宝物を捧げ持って礼拝堂の奥から行進した。
「われらは来りぬ、はるけき国より、星に導かれ、野山越えて」
と讃美歌 第二編 52番をお母さん達が歌う。
私はこの場面に感動を覚えた。
そこには深奥なしるしがある。
私たちが信仰に至る、はるかなる道程が象徴されている。
「野山越えて」に信仰者の物語を想う。
日本の婦人解放運動の旗手・矢嶋楫子は46歳で洗礼を受けた。
知友、盲人牧師・青木優氏は人生途上、絶望からの転生を生きている。
今日、この礼拝で受洗されるM姉、N兄の人生の物語も同じく、心に残る。
そもそもマタイ2章の占星術の学者の記事は、この福音書の明確な構図の中への位置付けを欠かせない物語である。
ユダヤ人の王ヘロデと、新しい「王」イエスとは真っ向から衝突する。
イエスを拒否するエルサレムの支配層住民と異国の占星術学者とは、イエスをめぐって行き違う。マタイ教会の異邦人伝道のモチーフが鮮明である。
レンブラントのイエスの降誕の絵のように、ほのかな光の中で、闇路を旅してきた学者達は、イエスと出会う。
しかし、私たちは、ここでもう一方のはるけき道程に心を注がねばならない。
幼な子に象徴される「救い」も、初めからそこに存在した訳ではない。
はるけき道程をたどっている。
ローマ 3:21は、そのことを「律法と預言者によって立証されて」と語る。
出エジプトの物語、アモス・イザヤ・エレミヤに示された預言者たちの物語を私たちは思い起こす。
さらに、十字架の死に至るイエスの生涯、「地上を歩む神」に想いを馳せる。
私たちの信仰の歩みの物語の見えざる前提として、神の物語がある。
信仰は、何かを理解し、何か安心に至る観念を所有することではない。
聖書そのものが、神の歩まれた歴史を示しているとすれば、私たちが、自分の固有な人生をその歴史の光の中で、見直していくことであると思う。
八十川昌代氏(広島主城教会牧師)から、近著『彼方からの光を受けて』(キリスト新聞社 1998)を戴いた。
ガンによる転移性骨髄腫の中、1997年のクリスマスに行った説教が納められている。
「骨のガンで死ぬことはありません」
と、たまたま記した同病の友人の手紙の一行が、思わぬ励みとなったこと、それは神がその一行を用いられたからだ、と証している。
そこには、人生を、神の光の中においた平静な旅路が垣間見られる。