『ただ証人として – 東ドイツ説教集』F.ヴィンター編、雨宮栄一訳、
日本基督教団出版局 1979年3月1日発行
「聖書と教会」1979年9月号掲載 p.44-45(日本基督教団出版局)

(神戸教会牧師、健作さん46歳)
本書は、今年3月から4月にかけて、東ドイツ福音主義教会連盟の代表の訪日を受け入れた機に、東ドイツの実状と課題を少しでも日本の教会に紹介し、そこに教会の連繋を産み出そうとする積極的意図をもって雨宮栄一氏(教団東ドイツ関係委員会委員長)により訳された説教集である。原著は1975年出版。彼の国において説教指導の任にあたっている実践神学教師、牧師研修所長、監督、総教区長といった主に40代後半から50代(数人は6、70代)の人たち20名の、それぞれの職務に関係した場(学期終了礼拝、ラジオ放送、按手礼式、教会視察や問安、研修所やアカデミーでの集会等)で行なった説教10篇に、それぞれの説教が行なわれた状況を短く付して編集したものである。
自らも説教を寄せている編者 F.ヴィンター氏の序言によれば、説教の指導者や批判的聞き手が、必ずしも理想の説教者ではないとことわりつつも、収録された説教が、説教学上からも十分な自覚をもってなされたものであり、テキストに正しく即した聖書的説教であるという一般的特徴を示し、説教を学ぶための重要な5つのヒントを付している。ということから考えれば、この説教集は諸教会とその説教者たち、特に若い志望者たちへの、実践的教育的な指針を意図した性格をもっていると思われる。それゆえ、説教者の神学的立場も多様であり、状況との対決の中で産み出された神学的協労をもった説教集とは少し趣きを異にする。しかし、説教は状況とのかかわりをぬきにしてはあり得ない。訳者が「注意深い読者は、無神論的世界観に立脚する社会主義にあって、宗教改革以来の伝統を負う東ドイツ教会が、どのような問題と課題を担っているかを知るであろう」と、原著とは別に、訳者の新たな性格を示唆しているが、重ね合わせると、説教者の養成と説教の質を軸にした東ドイツ教会の根強い宣教の戦いをうかがい知ることができる。
「一つの説教が対話を生むならば、決定的なことが起こったと言ってよい」と編者が語っているが、教会的伝統も社会的状況も異なり、読む者の神学的伝統も相違しているにもかかわらず、読んで迫るものがあるのは、説教を成立せしめる「教会」ゆえのことであろうか。以下はその2、3である。
『証人は主を指さす』(I.ベッカー、ヨハネ 1:6-9)。この説教は、様々な期待と幻をもってフィールドへ遣わされる神学部学卒業生に「自分自身が透明になり、私たちを通して主が証しされるようになるでしょう」と確かな指示を与えている。状況の困難さではなく「ただ証人として」(本書書名)の道が示されている。
『危機と救い』(T.ハンセ、マタイ 6:1-4)。社会主義国家では教会の働きは教育部門では閉ざされているが、老人や病人への福祉部門には場がある。しかし、奉仕の場で善行を見つめる自分からの自由の問題は固有な宗教的課題である。この説教はそこへこう語る。「自己忘却という信仰的な自由を得るためには、一つの可能性があります。それは主イエスに自己をゆだねることのできる者に起こるのです。主イエスを知るものは自分を忘れる」。
『神の承認において状況に対立する人生」(J.ヘンペル、ローマ 13:21-28)。「主われに語り給うゆえに、ただ明日に生きん」。神について問うことをしない無神論的状況に向かって、宗教改革記念日に、ローマ書をもって聖書のメッセージを直截に語る教会の正攻法にルター派の教会の伝統の重さを感じる。
『主のために生きる』(E.コッホ、ローマ 14:7-13)。状況の厳しさは内輪の齟齬を生む。社会主義状況下の政治判断は微妙に分かれるであろう。そのことを捉えてこう結んでいる。「私たちが主のものにされていることに心から然りをいいたいのです。それ以上のことは何もありません。主が私たちのためになされたことをただ沈黙をもって受けとめたいと思います」。
『裏切り者をも用い給うイエス』(W.クルーシェ、ヨハネ 21:15-19)。8名の牧師補の按手礼における説教。牧会の業の基本がくりかえし説かれた後、牧会者に確かなことは、彼が「主のみ手のうちにあること」と述べ、最後をペテロの殉教と関連させ、「苦難を経験するようなことがあるなら、その苦難によって神は賛美されるのです」と結んでいる。東ドイツ教会の歩みの確かさを見る思いがする。
たとえ状況が違っても、説教を通して福音を聞くことにより得られる教会のつながりは、教会にとって深いつながりであろう。この書はそういう意味を担った書である。
(岩井健作)

