人の近さ遠さ《ヨハネ 6:60-65》(1979 礼拝説教要旨・週報)

1979.8.19、神戸教会
説教要旨は9月2日の週報に掲載
(予告では「遠さ近さ」・要旨は「近さ遠さ」)

(牧会21年、神戸教会牧師2年目、健作さん46歳)

ヨハネによる福音書 6:60-65、説教題「人の近さ遠さ」

”父が与えて下さった者でなければ、わたしに来ることはできない”(ヨハネ 6:65)


 刈り込まれた街路樹、柳の黒く年輪を経た幹の、思わぬところから若緑の小枝がそよいでいるのを目に留めた時、木の生命力というだけではなく、思わぬ暗示を与えられました。

 ヨハネ15章の、ぶどうの幹に枝が繋がっている譬えも、こんな有り様を言っているのではなかろうかと。


”わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である。わたしにつながっている枝で実を結ばないものは、父がすべてこれをとりのぞき、実を結ぶものは、もっと豊かに実らせるために、手入れしてこれをきれいになさるのである。あなたがたは、わたしが語った言葉によって既にきよくされている。わたしにつながっていなさい。そうすれば、わたしはあなたがたとつながっていよう。枝がぶどうの木につながっていなければ、自分だけでは実を結ぶことができないように、あなたがたもわたしにつながっていなければ実を結ぶことができない。”(ヨハネ 15:1-4、口語訳)


 今まで「枝」といえば、太い幹から順に、太い枝、小枝、という秩序でもって繋がりを考えていたイメージが、ガラガラと崩れました。

 ヨハネ福音書の研究家が、ヨハネにはパウロのように組み立てられた教会論(組織論)がないと言っていますが、そのことと重ね合わせて考えると、一人一人が神を信じるか、信じないか、光か闇か、といった具合に、ちょうど幹のどの部分からでも芽を吹く小枝のように、キリストに直接繋がっているかどうか、がこの福音書の関心事なのだということがわかります。


 今日のテキストでも「弟子たちのうちの多くの者」が呟(つぶや)いてイエスのもとを去っていったことを記しています。

 組織論を土台にしていれば、これはまずいことなのですが、そんなことはお構いなしです。

 元々、人と人との結合力というものは、普通、地縁・血縁・門閥さらには思想や目的の共通性といったことに依るようですが、おそらくイエスの弟子たちもイエスの考えにある面での共鳴を感じて着いて来たに違いありません。

 でも、そういった”近さ”は、いずれ切れていくものです。

 63節では「人を生かすものは霊(神からの関係の近さ)であって、肉(自分からの関係の近さ)は何の役にも立たない」と記されています。


”人を生かすものは霊であって、肉はなんの役にも立たない。わたしがあなたがたに話した言葉は霊であり、また命である。”(ヨハネ 6:63、口語訳)


 教会は、ここでいう「霊」に立つところですが、いつの間にか「肉」に依る”人間結合の力”が深く入り込んできます。

 初期教会が組織形成に力を入れ「職制」が整えられていた時代(当然、様々な人を結ぶ諸力が働いていたのと同じ時)、他方で「父が与えて下さった者でなければ、わたしに来ることはできない」(6:65)という《神との内面的関係》を強烈に打ち出していった「ヨハネの教会」があったことは大変驚きです。


”そしてイエスは言われた、「それだから、父が与えて下さった者でなければ、わたしに来ることはできないと、言ったのである」。”(ヨハネ 6:63、口語訳)


 教会の根本は《神への結びつき》ですが、それ自身を「父が与えて下さった」ものとして大切にし、真剣に各人が受けとめていくところに、その土台があるのではないでしょうか。

 人の”近さ”はそのような各人の《神への繋がり方》を垣間見ることであって、直接的な関係の近さではないようです。

(1979年8月19日 礼拝説教要旨 岩井健作)


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