1985年12月29日、降誕節第1主日
(説教要旨は1986年1月12日週報に掲載)
(牧会27年、神戸教会牧師8年、健作さん52歳)
詩篇 130:1-8、説教題「四十年の終わり」岩井健作
”しかしあなたには、ゆるしがあるので”(詩篇 130:4、口語訳)
1985年の終わりにあたり、詩篇130篇を共に学びたい。
これは「罪の懺悔詩」のひとつと言われるもので、詩篇の中でも特に内面的な深さを持っている。
”主よ、わたしは深い淵からあなたに呼ばわる。”(詩篇 130:1、口語訳)
この冒頭の一句に、この詩の中心は宿されている。
「深い淵」ヘブライ語で”シェオール”、陰府(よみ)、これは神の光の射さない所、神との交わりを絶たれた所を意味する。
しかし、そこでなお「主よ」と呼びかけることは、そのこと自身が「恵みの出来事」を意味している。
コロンビアの火山災害の映像が、死せる母を呼ばわる子の姿を映していたが、母の光の射さない所で、あえて呼ばわる愛の絆の深さが胸にしみた。
それと同じように、神への叫びは、闇を破る光を受けている。
2節には「主よ、どうかわが声をきき」とある。
”主よ、どうか、わが声を聞き、あなたの耳をわが願いの声に傾けてください。”(詩篇 130:2、口語訳)
「我が声」は悩める者、苦しめる者の叫びであり、切実ではあっても、ある意味で主観的であり、一面的であり、自分本位である。
その動機や中身を吟味すれば、神の前では不義としか言いようがないであろう。
”主よ、あなたがもし、もろもろの不義に目をとめられるならば、主よ、だれが立つことができましょうか。”(詩篇 130:3、口語訳)
しかし、神はその声に耳を傾けられる。
そこには深い慰めがある。
1985年の終わりは、また太平洋戦争後、戦後四十年の終わりでもある。
私たちは、民族や市民社会全体や国が持つ不義、神の前での罪を思わざるを得ない。
神がその不義を数え上げれば誰が許されようか。
今年の5月8日、西ドイツの大統領 R.ヴァイツゼッカーが演説を行った。(「荒れ野の40年」、月刊「世界」岩波書店 1985年11月号 収録)
彼は、この日をあの戦争で人々が舐めた辛酸の苦しみを想い起こす日だと言っている。
そして実に具体的に事実を挙げ、それを一人ひとりの内面の一部と見るように、つまりその事柄に責任的に関与していることを想い起こすことを説いている。
「想い起こす」(”Erinnerung”)とは、「内面化」「心に刻む」「血と肉とする」ことだと解説者は言う。
今の日本に欠けているものは、罪責についての想い起こしであると思う。
旧約聖書は、イスラエル民族は四十年荒野を彷徨うことで、エジプトでの奴隷の精神から脱し、またバビロニア捕囚の四十年を経て、国が敗れた中での希望の意味を知った、と語っている。
四十年は、ひとつの完結を表している。
私たちは、この年の終わりを単に自分の身の周りの思い出だけにふけることなく、私たちの民族や社会が全体として宿している深い淵から、主に呼ばわることをもって、締めくくっていきたい。
(1985年12月29日 神戸教会 岩井健作)
1985年 説教・週報・等々
(神戸教会7〜8年目)