ユダの警告(1977)

1977年4月3日 棕櫚の主日
岩国教会週報「先週説教より」
マタイ 26:14-25

(岩国教会牧師12年目、健作さん43歳)

「先生、まさか、わたしではないでしょう」。イエスは言われた、「いや、あなただ」(マタイ 26:25)

 師を裏切る。そんなことがあってよいのか、と弟子たちは「非常に心配」(22節)した。その心配は、なんとかしなければという弟子たち同士の配慮や危惧ではなくて、自分で自分の心すら分からないほどに罪深い自分に対する心痛と悲しみであった。「悲しみのあまり死ぬほどである」(38節)と世の罪に心を痛めたイエスの心に幾分か関わっている(「心配」と「悲しみ」とは同義語)。が、心を内に向けていた弟子たちもゲツセマネでは「悲しみの果てに寝入っている」(ルカ 22:45)。だが、ユダヤは心を内に向ける目が欠けていた。熱心党の心情を汲む彼は、救世主(メシア)としてのイエスの消極さに失望しながら、祭司長などの権力とイエスを対決させることによって、イエスを自分の願う方向へ動かそうとする。彼はイエスを「引き渡す」(14節)。計画的に裏切るなどという思いは彼にはなかったろう。だから「まさか、わたしでは…」と問う。けれどもそのユダに「あなただ」とずばりおっしゃるのがイエスである。審きや批難というより、苦悩の果てからの言葉である(この後もイエスはユダに「友よ」と呼びかけている(50節)。)ルオーの『受難』という絵画の一枚に「もう ・私を・見て・下さるな。」という小品がある。前方に逃れようとする絶望的なユダの動き全体に、悲しみに満ちたその目を一層はっきりと注いでいるイエスが画かれている。ユダの存在が、私たちの信仰生活途上の警告であることを憶えたい。そして、そこにも注がれるイエスのまなざしを。

(1977年3月29日説教 岩井健作)


(報告欄より)
 共同の祈り「受難週を憶えて」
 キリスト教保育連盟指導者講習会 4日(月)
  講演「キリスト教保育とは」講師:岩井牧師。
 教区常任常置委員会 7日(木)於徳山教会。岩井牧師出席。


BOX-1. 岩国教会所蔵史料

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