行け《マルコ 10:46-52》(1983 週報・説教要旨)

1983年7月3日、聖霊降臨節第7主日
説教要旨は翌週の週報に掲載
出張:4日〜6日 教団常議員会(東京)

(牧会25年、神戸教会牧師6年目、健作さん49歳)

ミカ 6:1-8、マルコ 10:46-52、説教題「行け」岩井健作
 ”行け、あなたの信仰があなたを救った”(マルコ 10:52)


 今日の聖書日課はマルコ福音書の「エリコの町はずれの盲人」の物語である。

 この物語はマルコ福音書では重要な位置に置かれている。

 マルコの文脈は大きく分けると、1章〜8章まではイエスが神の子として福音を伝えるけれども、パリサイ人、同郷の人、弟子たちにその真の姿が受け入れられないで拒否される様が述べられている。

 8章でペテロのキリスト(救い主)告白があるが、これも不充分さと無理解が指摘され、この段階の結びに、今日の10章の「盲人の信仰告白」がかえって救いの事実を証ししていることを述べ、続く11章〜16章でイエスによる神の救いの真実は「受難と十字架と復活」にあることが示されている。



 このような文脈を考えると、マルコの「福音」の叙述は、説明的・解説的ではなく、イエスに関わる者の無理解やつまずきを述べることで《逆説的》に「神のみわざ」であることを伝えようとしている。

 救いは、人の目には驚くべきこと、神の奇跡という衝撃性をもって示されることを語っている。


 私たちはこの物語の中で、盲人に「行け」と言葉をかけるイエスの激しい関わり方に注目したい。

 視力が充分に保証されて行き先の道がよく見えるから「行け」と言うのではない。

 マルコ全体の文脈から「道」は「受難・十字架・復活」の道である。

 その道は、人々には無理解をもってしか見られない道であればこそ、神の真実な道である。

 説明して理解が出来てたどる道ではなく、後ろ姿に従ってこそ歩める道である。

 子が親の後ろ姿を見て自立して育つように、神は出来事としての十字架を示し、その真実さの故に、その道へと「行け」と促す。

 自立の勧めである。

 神は過保護の親のようではあり給わない。

 手とり足とりの方ではない。

 自立を促されることに救いを成し遂げられる。


 加えて注目したいのは、この盲人バルテマイの物語が、イエスの十字架に示された救いの真実が見えないことの人間の盲目性に対する単なる比喩としての文脈的意味だけで理解されてはならないことである。

 ハンディーをを持つゆえに、人は卑屈になりやすく、自立を失いがちである。

 そのような者こそ、他にまさって救いが必要であり、イエスもまた「彼を呼べ」(10:49)と命じておられる。

 ”イエスは立ちどまって「彼を呼べ」と命じられた。そこで、人々はその盲人を呼んで言った、「喜べ、立て、おまえを呼んでおられる」。”(マルコによる福音書 10:49、口語訳)

 そして「行け」という自立への促しは、神の愛と肯定の宣言である。

 ”そこで彼は上着を脱ぎ捨て、踊りあがってイエスのもとにきた。イエスは彼にむかって言われた、「わたしに何をしてほしいのか」。その盲人は言った、「先生、見えるようになることです」。そこでイエスは言われた、「行け、あなたの信仰があなたを救った」。”(マルコによる福音書 10:50-52a、口語訳)


 現代の日本の人間関係の心理的特質は「甘え」や「過保護」と言われ、私たちはその病理に日夜悩まされている。

 イエスの「行け」を叱声としたい。

(1983年7月3日 主日礼拝説教要旨 岩井健作)


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1983年 説教

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