イエスからの問い(1983 神戸教會々報 ⑮)

1983年7月10日発行
(1983年夏期特別集会前週)
神戸教會々報 No.103 所収

(健作さん49歳、牧会26年目、神戸教会6年目)

 “そこでイエスは彼らに尋ねられた、「それでは、あなたがたはわたしをだれと言うか」。ペテロが答えて言った、「あなたこそキリストです」。”(マルコによる福音書 8:29、口語訳)


 信仰の告白というものは、その表現において伝統的な概念や思想を用いてなされる。

 福音書に記されているペテロも、当時人々の間では自明の内容をもっていた「キリスト」という言葉で「わたしをだれと言うか」というイエスからの問いに答えた。

 「キリスト」は「メシヤ(油注がれた者の意、即ち救い主)」のギリシャ語表現であり、イスラエル民族が待望する「救い主」を意味する。

 ペテロがイエスを「キリスト」だと告白した意味は、今日我々が神学的に考えるような贖罪論的キリストや終末論的キリストではないであろう。

 恐らくイエスに従ってきた多くの群衆が、権力の干渉によって身の危険を感じて去り始めたとき、自分達は単にラビ(ユダヤ教の教師)を求めて来ているのではない、イスラエルを救うメシヤはこの人なのだとの思いでイエスに従っているのだ、という自負の表白であったであろう。


 マルコによる福音書の文脈は、このペテロのキリスト告白について、全体として肯定的であり、部分的に否定的であるように思われる。

 肯定的という意味は「イエスとはだれであるか」との問を受けて、他人はどうであれ、自分の決断を言葉で告白し、それを「イエスに従う」という行為としていることである。

 否定的というのは、彼の言う「キリスト」はイエスへの誤解の表白であるという点にある。

 マルコはイエスを受難と十字架の死に極まる「すべての人の僕」(マルコ10:45)である「神の子」を告げ知らせているが、ペテロには十字架の死のメシヤはつまづきであったという意味で、彼のキリスト告白は評価されていない。

 以上のことを言い換えるならば、「イエスからの問い」は私たちに二つのことを促している。


 第一は、決断。
 イエスに関わり続けること(もう少し厳密に言えば「従う」こと)。

 告白の主体であること。

 イエスからの問い「あなたはわたしをだれと言うか」に接し、イエスの思想やその生涯の激しさを思うと、私たちはたじろがざるを得ない。

 しかしそこから逃げないことも含めて、イエスとの関わりで自分を持ち続けることが、信仰告白の主体であることへの促しである。

 この点を相互に頒ち合うのが「教会」であろう。


 第二は、問いへの答えが言葉で言い表わされるという点。

 そしてその言葉は冒頭にふれたように歴史的制約の中にある概念や思想であるという点にある。

 だから「イエスとはだれか」という問いに対する答えは、答える人の数だけある。

 イエスに関する邦語文献は明治以後600を超えるというが、その意味もその辺りにある。

 そして現存する最古のイエスについての文献、福音書そのものが実に多様な答をもっている。

 だからこそ興味つきない福音書への学びがあり、自分の「イエス」像を語る妙味がある。

 それがたとえ誤解に満ちており、ペテロの「キリスト告白」のように否定的評価を受けようとも、自分の信仰告白としてのイエスを語り、それを訂正されつつ歩みたい。

 この度の(講師 橋本滋男氏、1983年)夏期集会にはこの二つのことをふまえて臨みたい。


(サイト記)本稿発行の翌週、1983年7月17日に神戸教会は夏期特別集会を開催。主題「イエスからの問い」、講師:橋本滋男(同志社大学)教授。『土の器に盛られたいのちの言葉 − 聖書をどう読むか』(神戸教会伝道部委員会 2003)に説教と講演が収められています。

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北海道の旅(1983 神戸教會々報13)

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