明晰《マルコ 12:28-34》(1983 週報・説教要旨)

1983年7月10日、聖霊降臨節第8主日
説教要旨は翌週の週報に掲載
1983年 夏期特別集会(橋本滋男氏) 前週

(牧会25年、神戸教会牧師6年目、健作さん49歳)

申命記 10:12-11:1、マルコ 12:28-34、説教題「明晰」岩井健作
 ”これより大事ないましめは、ほかにない”(マルコ 12:31)


 先週に続き今回も主日聖書日課がマルコより選ばれている。

 マルコ11章〜16章は「イエスの受難」を告げるマルコ最後の大きな段落である。

 8章以下10章までにはイエスへの「弟子の無理解」「人々の拒否」が述べられたが、11章〜12章になるとそれは律法学者、祭司長、パリサイ人、サドカイ人、ヘロデ党といった互いに利害が反する人々の一致結束をしたイエスへの攻撃に変わっている。

 質問もイエスを陥れようとする悪質なものになっている。

 それらと比べれば、今日の箇所に出てくる律法学者は虚心坦懐に日頃自分が感じている矛盾につきイエスに教えを乞おうとしている点で、しばし心の和みを覚えさせる。

 ”ひとりの律法学者がきて、彼らが互に論じ合っているのを聞き、またイエスが巧みに答えられたのを認めて、イエスに質問した、「すべてのいましめの中で、どれが第一のものですか」。イエスは答えられた、「第一のいましめはこれである、『イスラエルよ、聞け。主なるわたしたちの神は、ただひとりの主である。心をつくし、精神をつくし、思いをつくし、力をつくして、主なるあなたの神を愛せよ』。第二はこれである、『自分を愛するようにあなたの隣人を愛せよ』。これより大事ないましめは、ほかにない」。そこで、この律法学者はイエスに言った、「先生、仰せのとおりです、『神はひとりであって、そのほかに神はない』と言われたのは、ほんとうです。また『心をつくし、知恵をつくし、力をつくして神を愛し、また自分を愛するように隣り人を愛する』ということは、全ての燔(はん)祭や犠牲よりも、はるかに大事なことです」。イエスは、彼が適切な答えをしたのを見て言われた、「あなたは神の国から遠くない」。それから後は、イエスにあえて問う者はなかった。”(マルコによる福音書 12:28-34、口語訳)


 当時のユダヤ教律法主義はあまりにも末梢的な細かい規定で人々を縛り、これを順守しようとする人々に重圧となっていた。

 このことが逆に律法を形式的にだけ守っていれば良いという退廃を招いた。

 この律法学者はいわば病める社会病理を自らの悩みとした良心的な人である。

 彼は時代の難問を引っ提げて、答えをイエスに求めた。

 こういう人は今日もいるし、私たちすらその部類の人間でないとは言えない。


 ”すべてのいましめの中で、どれが第一のものですか”(マルコ 12:28)

 こう聞く彼の問いの前提には、まず秩序や体系が考えられている。

 主要なものと付随するものとの区別を立てることで、矛盾を整理することができるとすれば、一面この質問は良い質問であり、イエスもそれに逆らって答えているわけではない。

 イエスは「神への愛と隣人への愛」を示す。

 これは旧約の申命記6章4節・5節とレビ記19章18節を結びつけたものである。

 イエスの独自性は、その結びつけにあるのではなく、むしろ「律法」に対して「愛」を提示したその徹底性にある(シュタウファーの指摘)。

 愛は秩序や体系を前提としない。

 しかし決断を必要とする。

 決断し、行為する人間が、「律法」では越えられない現実の矛盾に耐え、新しいものを生み出していく。

 律法学者とイエスの問答は一見穏やかなやりとりのようであって、実は問いと答えとの水準がはっきりと異なっている。

 ”これより大事ないましめは、ほかにない”(マルコ 12:31)

 この言葉には「いましめ」の他律性は確かに残っている。

 しかし、もはやその意味は「律法」的重さを担うものではなくて、イエスの「十字架と復活」の福音から来る促しや方向性の響きをもっている。

 「愛」は「律法」を凌駕する。

 この明晰さを失ってはならない。

(1983年7月10日 説教要旨 岩井健作)


1983年 週報

1983年 説教

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