信教の自由を守る日と私たち(1997 説教要旨)

1977年2月6日 岩国教会礼拝説教
1977年2月13日 岩国教会週報「先週説教より」
コリント第一 5:6-13

(岩国教会牧師12年目、健作さん43歳)

”わたしたちは、…古いパン種を用いずに、パン種のはいっていない純粋で真実なパンをもって、祭をしようではないか”(コリント第一 5:8、口語訳)

 パウロがコリント教会の信徒の状態を憂い、かつ戒めている。それは、キリストを信じることが、生活のある一部分の原理や、一つの知識になってしまっていて、全生活を貫くものとなっていない現状についてである。福音は人間の生活全体、歴史全体の救いであるからこそ、引き裂かれるような現実の諸問題の中でのうめきや悲しみに対して、十字架の贖いと終末的希望として示されている。にもかかわらず、キリストを信じると言いながら、生活の部分部分が、別なこの世の考え方に基づいてしまっていることが厳しく戒められている(コリント第一 5:9-13)。信仰を生活の一部に閉じ込めさせる力は、信仰者を内側から骨抜きにしてしまうが、そのような内なる弱点を利用して、外側から信仰者をダメにする力が、国家の権力、特に日本では天皇を中心とする国家主義体制であった。国家がそのような悪魔的なものにならないように憲法の信教の自由という足枷(かせ)があるのだが、今、その足枷がなし崩しにされかかっている。旧紀元節の復活を『信教の自由を守る日』と逆設定して自覚的に守り始めて十一年になるが、この日は、私たちが、キリストに従っていく告白的在り方を自分の生活全体に、そして、自分の生活の根本に据えることをもう一度キリストの前に求められている。「真実なパンをもって祭(礼拝と生活)をしようではないか」(5:8)と。少量でも古いパン種を除いて、キリストの救いにしっかりと立って歩む決心を新たにしたい。

(1977年2月6日 岩国教会礼拝説教 岩井健作)

BOX-1. 岩国教会所蔵史料

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