エルサレムに向かうイエス(1976)

1976年3月28日 岩国教会週報「先週説教より」
ルカ 9:451-56、ペテロ第1 1:13-16

(岩国教会牧師12年、健作さん42歳)

エルサレムへ行こうと決意して、その方にへ顔をむけられ…(ルカ 9:51)

 エルサレムへの道行きはイエスの十字架の受難を意味している。権力と富の力の支配に対して、全く別な原理でもって、しかも根本的にその力を克服しようとする激しさが、冒頭の引用句にはある。けれどもこの箇所は一行がサマリアの村で迂回を余儀なくされた出来事を伝えている。イエスは弟子たちを戒め、彼らを叱られた。そこから学びたい。

 使命に生きる人間、信念に立つ人は一筋になりやすい。当時ユダヤ人たちは年一回のエルサレムに巡礼としてのぼった。その姿は一途であっただろう。だがユダヤ人から差別されていたサマリア人にはその一途さはユダヤ人の身勝手と感じられた。現実の差別の原因を歴史的に辿ってみれば、エルサレム神殿中心の体制はまさに差別の表れであった。だから村人は巡礼の一行としか見えなかったイエスたちを歓迎できなかった(53節)。弟子たちはエリヤの故事を思い出し「天から火をよび求めよう」と、彼らを自分の立場で審いて突破しようとした。しかしイエスは彼らを叱って他の村へ行った。

 十字架を負うという道行きは、一直線ではいかない。歴史的な立場が違えば、自分の十字架を負う道すら阻まれる厳しさを突きつけられることすらある。他の村へ退く(自分が立ち得る場に立ちつつなお逃げることなく)道を選びつつなお「エルサレムに向かう」十字架の道行きが大事なのではなかろうか。村人の拒絶がエルサレムへの道を遠ざけるのではなく、より一層深めることを知りたい。私たちの出会う一見信仰生活の道を阻むような現実もそのような意味を持っていることを見抜き、信じて歩みたい。

(岩井健作)


(報告欄より)
教団関係宣教師会議 30日〜4月1日、於静岡県御殿場 教区代表として出席。


BOX-1. 岩国教会所蔵史料

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