光の中を歩くならば《ヨハネ第一 1:1-10》(1981 週報・説教要旨)

1981.1.4、降誕節第2主日、
新年聖日礼拝、説教要旨は翌週の神戸教会週報
花隈の教会<住居表示の変更にことよせて>

(神戸教会牧師3-4年目、牧会23年、健作さん47歳)

この日の説教、ヨハネ第一の手紙 1:1-10、「光の中を歩くならば」岩井健作

 光の中を歩むことは喜ばしいことであり、誰しもが望むことである。

 私たちは生活の中で光を求めている。

 朝の陽光をみて心の軽やかさを覚え、新聞のニュースや職場の同僚の顔の明るさが、そこはかとなく一日を温める。

 年のはじめ初日の出を見るため山に登る人も多い。

 それはその昔の太陽崇拝の名残をさえとどめている。

 聖書は「光あれ」という神の言葉が告げているように、光を、神の創造のわざの一つと捉える。

 そしてまた、新約では「イエスの存在」、その人格とわざとを光に象徴させて語っている。

 「わたしは世の光である」(ヨハネ 8:12)と。

 そしてこの世は、一面光を望みながら、本当には「彼は自分のところにきたのに、自分の民は彼を受け入れなかった」(ヨハネ1:9)と、必ずしも光を喜ばない、人の世の裏面を告げている。


 人の世は、光を待ち望みながら、光が世の闇、人の罪、人の内面の醜さを照らし出すことを恐れている。

 我々は、本当に、光を受け入れる覚悟を持つだろうか。

 「わたしがこの世に来たのは人を審くためである」(ヨハネ 3:19)とあるが、一般論で光を待ち望みながら、具体的なことで、真実、光を受け入れることを一貫させない、人の世の現実がよく出ている

 光を望むことは、また光に審かれることでもある。

 例えば、なぜ金大中氏は死刑を宣せられるのかといえば、この政治家は総論だけではなく各論でも民主化を一貫させようとするからだと思う。

 彼はその覚悟を官民全体に訴える。(『民主救国の道』金大中著、和田春樹, 東海林勤 編、新教出版社 1980、 p.26)


 ヨハネ第一の手紙は、「神は光だ」と訴え、「神には少しも暗いところがない」と語る。

 神について語る者が、語っていることを生活の具体層に一貫させないでいるなら(当時のグノーシス主義の人たちを批判して)、光は陰っている。

 「光の中を歩く」ことは、光について語ることでも、光について知っていることでもない。

 それは、光によって生きることだ。

 それは具体的に9節では、光に晒されたものが「自分の罪を告白する」ことだと言う。

① 自分の
② 罪(複数、グノーシスの人は8節のように単数で抽象化する)
③ 告白(言葉と生との一致)
という営みを経て、それはなされる。

 「光の中を歩む」決断を新しくしたい。

 言葉を扱う人間ではなく、言葉を語る人間へと導かれることの祈り切なるものをもって、新年を迎えたい。

(1981年1月4日・11日 週報 岩井健作)


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