1974年8月18日 岩国教会週報
「先週説教より」第一コリント1:18-2:5
(岩国教会牧師9年目、健作さん41歳)
どんな人間でも、神のみまえに誇ることがないため(コリント第一 1:29)
弱い者、身分の低い者、軽んじられている者、すなわち無きに等しい者を、神はあえて選ばれた(1:26-28)。―――これがコリント教会のありのままの姿であった。パウロはこの事実の中にこそ、世の知恵に対する戦い、自己義認に対する戦いがなされ、神による「義と聖とあがない」(1:30)がはっきりしてくる福音の力を見ている。
自分の力の行き詰まるところでこそ見えてくる人間の在り方が、「召された」(1:26)者、また「選ばれた」(1:28)者としての、信仰による人間の姿である。
過日、『朴鐘碩(パクチョンソク)君を囲む会』の飯塚氏の訪問を受け、資料を得て朴君自身の上申書をはじめて読んだ。朴君は、日立に合格しながら韓国籍のために解雇され、在日朝鮮人として初めて就職差別訴訟を行い、解雇無効の判決を得た青年である。世界教会協議会(WCC)が200万を支援し、李仁夏牧師が「囲む会」の呼びかけ人の一人であり、中平健吉弁護士(9月に西中国教区信徒大会の講師)が弁護されたことはよく知られるところであるが、彼の上申書の中で教えられた点は、彼が新井鐘司という名で、よき日本人になろうとしていた時に見えなかったものが、就職差別の壁の中で見えてきたという告白であった。自分の誇りを捨てる中で、彼自身はもとより、彼の周囲の人たちが目を開かれている。キリスト者がこの戦いに連帯しているのは、宗教的立場から差別を否定するというだけではない。自己の誇りを捨てざるを得ない行き詰まりの中にこそ「神の義」が露わになっていくという出来事が、この事件の深みには含まれているからだと思う。「無きに等しい者」という自覚に至るまでには曲折もある。しかし、その自覚に立つところにこそ、信仰の出発点があることもまた真実である。
(1974年8月11日 岩国教会 岩井健作)


