1992年12月6日、待降節第2主日、神戸教会 週報
(神戸教会牧師15年目、牧会34年、健作さん59歳)
イザヤ書 2:2-4、マルコによる福音書 10:17-22
説教題「終わりの日に向かって」岩井健作
待降節(アドヴェント)第2週の日曜日に読むように選ばれている教会暦聖書日課は次の4ヶ所になっている。
詩篇119:137-144、ガラテヤ 3:15-24、マルコ 10:17-22、イザヤ 2:2-4。
この各々の箇所を開けて読んでみると、一見何の関係もないようであるが、一つ気づいたことがある。
それは、それぞれのテキストには《長い時間》というものが予想されている、ということだ。
詩篇119篇では、あだ(復讐)に苦しめられている詩人が、悩み苦しみながら、なお神の義を信じ、その掟(おきて)に生きる生活を「わたしに知恵を与えて、生きながらえさせてください」との祈りで結んでいる。(詩篇119:144)
”わたしに知恵を与えて、生きながらえさせてください。”(詩篇119:144、口語訳)
ガラテヤでは、神の恵みの約束が「相続」に譬(たと)えられている。
それを「あらかじめ立てられた契約」と言って、先を読んだ長い時の末の出来事であることが示される。(ガラテヤ人への手紙 3:17)
”神によってあらかじめ立てられた契約が、四百三十年の後にできた律法によって破棄されて、その約束がむなしくなるようなことはない。”(ガラテヤ人への手紙 3:17、口語訳)
マルコは、イエスのもとを悲しみながら去っていく資産家を記している。
でもそこには、イエスの慈しみの目が描かれている。
決して審かれてはいない。
この人もいつの日にか「永遠の生命を受ける」時の来ることが暗示されている。
今日はイザヤを主なテキストとして選んだ。
ここにも《長い時》が示されている。
イザヤは、紀元前8世紀、イスラエルの王国の分裂時代、南王国ユダで活躍した旧約聖書の預言者の一人である。
時代は、強大なアッシリア帝国の勃興期で、メソポタミア地方からエジプトに至る小国は、その軍事力によって次々と支配されていった。
その支配も、朝貢、捕囚、属州化と巧みな政策が採られた。
ユダ王国の王朝も危機に怯えた。
世界の中心は、アッシリアの都と、力のなびく中で、イザヤは40年間、終始一貫、イスラエルの神ヤハウェの支配を確信し「われわれの神の教に耳を傾けよ」と呼びかけた。
”あなたがたソドムのつかさたちよ、主の言葉を聞け。あなたがたゴモラの民よ、われわれの神の教に耳を傾けよ。”(イザヤ書 1:10、口語訳)
イザヤ書2章2節〜4節は、ヒゼキヤ王が紀元前701年にアッシリアに降伏した後の預言だと言われる。(列王紀下 18:15-16)
イザヤはその時も、神の約束は変わらず、終わりの日には軍事力が最後でないことを訴えている。
「ヤコブの家よ、さあ、われわれは主の光に歩もう」と打ちひしがれた民を慰めている。
”ヤコブの家よ、さあ、われわれは主の光に歩もう。”(イザヤ書 2:5、口語訳)
私たちは、知らない間に「つるぎ」や「やり」という力を頼んだ生き方をしている。
しかし、それが破られる時の辛い経験もする。
考えてみれば、そこが出発なのかもしれない。
そこから《長い時》のあることに慰めを覚える。
「終わりの日」という言葉は、救いのある長い時間を私たちに示唆している。
”終わりの日に次のことが起る。
主の家の山は、
もろもろの山のかしらとして堅く立ち、
もろもろの峰よりも高くそびえ、
すべて国はこれに流れてき、
多くの民は来て言う、
「さあ、われわれは主の山に登り、
ヤコブの神の家へ行こう。
彼はその道をわれわれに教えられる、
われわれはその道に歩もう」と。
律法はシオンから出、
主の言葉はエルサレムから出るからである。
彼はもろもろの国のあいだにさばきを行い、
多くの民のために仲裁に立たれる。
こうして彼らはそのつるぎを打ちかえて、かまとし、
国は国にむかって、つるぎをあげず、
彼らはもはや戦いのことを学ばない。”
(イザヤ書 2:2-4、口語訳)
(1992年12月6日 神戸教会週報 岩井健作)