サウロの回心(2009 小磯-32 LAST)

サウロの回心

2009.11.25(水)第32回「洋画家 小磯良平の聖書のさし絵から聖書を学ぶ」

「現代社会に生きる聖書の言葉」湘南とつかYMCA ”やさしく学ぶ聖書の集い”
(明治学院教会牧師、76歳)

使徒言行録 9章1-9節


1、キリスト教の世界では「パウロ」(パウロはギリシャ語名、サウロはへブル語でのユダヤ教徒の時の名)といったら大変偉大な人物とされている。
 「キリスト教をローマ帝国に普及するのに最も功の多かった伝道者。もと熱心なユダヤ教徒でキリスト教徒の迫害に加わったが、復活したキリストに接したと信じて回心し、生涯を伝道に捧げ、64年頃ローマで殉教。「異邦人の使徒」といわれた。その書簡は新約聖書の重要な一部。」と一般的な辞書である広辞苑がその要点を纏めている。小磯さんはそのパウロを「サウロの回心」と題して、挿絵32葉の最後に描いた。

 日本聖書協会(1955年改訳の1980年版)の『口語訳』の挿絵では、表題が「改心」 となっているが、『新共同訳』(1991、2008年版)では「回心」と訂正してある。事柄から考えれば「回心」であろう。口語訳の「改心」は間違いだったと思う。使徒行伝では全28章のうち13章から28章の後半部分は、最後にローマで宣教するパウロの働きが事細かに記されている。その偉大なパウロがどのように描かれているかは、大変興味のある所であるが、小磯さんはたった一枚、『パウロがぶっ倒れている』場面を描いた。そして、この場面が使徒行伝でも、聖書全体でも大変大きな意味を持っているので、挿絵の最後を飾るにふさわしい絵であると、わたしは思っている。

2、この絵には下絵が一枚ある(小磯記念美術館『図録』)。下絵と完成図とを比べて見ると異なる点がある。下図ではパウロと同行者たちの上に天からの光が右斜めに下っているが、完成図ではそれがない。聖書本文には3節に、「突然、天からの光がさして、彼をめぐり照らした」とあるから、その光の絵画的表現として、光を表す線が描かれていて不自然ではない。が、完成図ではそれを取ってしまった。光はサウロが倒されたこと、つまりキリスト教徒の迫害に赴くパウロの内的必然性が天から打たれたことの原因を現している。絵画的にはその強い光を含めて表現するより、倒れた出来事だけを表現したほうがリアリティーがあると、画家の直感でこれを描かなかったのであろう。

3、絵を、少し丁寧に眺めて見ると、「同行者たちは物も言えずに立っていて」(口語訳 7節)が良く表現されている。5人の人が描かれているが本文にその数がある訳ではない。4人でも6人でも構図が落ち着かないという事であろう。この5人は天からのイエスの「声だけは聞こえた」とある。同行者の「ものも言えずに」という様子が、5人それぞれの面持ちでは黙想しているようでもあり、視線が全部違った方向に向けられていることで現されている。「行動的迫害団」のリーダーが突然うつむきに倒れたのだから一行の驚きはどんなであったであろう。右手前の男の左手は「これは何だ」とものを言っているような印象を与えている。当のサウロはといえば、うつむきに倒れ手を目に当てているようにも思える。一行のすぐ先はもうダマスコの街が近い。街の家々と人々の日常的賑わいが旅をするロバや赤い衣服の女性が家族ともにいる遠景でさりげなく描かれている。読者には、パウロがこの街でアナニアと出会い再び目が見えるようになって、キリスト教の伝道者に転向していくという「行伝」の物語への想像を促すような構図である。

4 、パウロについて書かれた伝記的名著に、佐竹明著『使徒パウロ – 伝道にかけた生涯』 (NHKブックス 昭和56年)がある。パウロの体験は厳密な意味で回心ではないとしながらも適切な言葉がないので便宜上回心と呼ぶとことわりつつ「回心」をかなり詳しく論じている。パウロ自身がこの体験について書いているのは、ガラテヤの信徒への手紙 1章15-16節である。使徒行伝の物語は潤色があるにしても、パウロ自身の語りを補っている。回心以前のパウロは自分を描くに際して、律法熱心という点に焦点を合わせて語っている(ガラテヤ 1:14)。この焦点の合わせ方の大転換が回心であった。それは律法による生き方との決別であった。佐竹さんはここを「それはつまるところ人間の力による救
済を目指す生き方であることに、彼の目が開かれたからである」(p.75)と言っている。ガラテヤでは「回心を述べる段階になると、それまでの『わたし』に変えて突然『神』を主語とし、神が『その子をわたしに啓示』したと述べる」(p.76)。この主語の転換を、物語的に表現したのが使徒行伝であり、「サウロがぶっ倒された」物語である。その絵画的表現が小磯さんの絵である。

 パウロにとってはガラテヤでも言っているように、彼は母の体内にある時から神に選ばれていた。彼にとって「神関係」は変わってはいなかった。「神理解」が変わったのである。もちろんそれはパウロの内面では序々に変化したのであろうが、物語では「ぶっ倒れたパウロ」として表現されている。倒れても頭をダマスコに向けているところが興味深い。


(サイト追記)本サイトに小磯画伯の挿絵は掲載できません。