神の僕ネブカドレツァル

「現代社会に生きる聖書の言葉」
湘南とつかYMCA ”やさしく学ぶ聖書の集い”

第85回「旧約聖書 エレミヤ書を読む」⑥
エレミヤ書 25章1節-7節

1、「主は僕(しもべ)である預言者たちを倦むことなく遣わしたのに、お前たちは耳を傾けず、従わなかった」(エレミヤ 25:4)。
 17世紀のオランダの代表的画家レンブラントの作品に『エルサレムの陥落を嘆くエレミヤ “Jeremiah Lamenting the Destruction of Jerusalem”』(1630年 アムステルダム国立美術館)があります。洞窟の奥のような場所で俯いた顔の頬に左手を当て、悩みに打ち沈んで体を斜めに横たえている姿です。レンブラント特有な光が頭部に当てられています。まさに神の言葉とイスラエル民族の背信の間にあって、苦悩するエレミヤをよく現しています。

2、今日の箇所の背景はエレミヤがイスラエルの民に「お前たちは自分の手で造った物をもって、わたし(ヤハウェ、主)を怒らせ、災いを招いた」(7) と言っているところです。「手で造った物」とは、イスラエルの偶像礼拝を指しています。「十戒」(イスラエル民族のエジプト脱出を導いた指導者モーセが、シナイ山で神から石の板に授かった十の戒め、イスラエル民族の生き方の基本になつた律法の基礎になったもの)の第二項には「あなたはいかなる像も造ってはならない」(出エジプト20:4)とあります。現代でもいろいろな偶像はあります。例えば、科学技術は人間を人間らしくするのに大切ですが、これが絶対化されると核兵器を生み出すことになります。経済は人間を人間らしくするために必要な仕組みですが、これがお金そのものとして絶対化されると、資本主義の破綻をもたらしますし、格差社会、民衆からの収奪を顕にします。「アベノミクス」が是か否か、というような論理は、金銭価値の絶対化に通じ、現代の一種の偶像礼拝に陥ります。もっと大事な「命」や「人間の存立に関わる主題」を軽んじることになります。イスラエルが内に潜む偶像礼拝と戦ったことは、現代でも本質的にあまり変わりがありません。

3、エレミヤは「北からの災い」(4:6)ということを語ってイスラエルの神へのこの背信に警告を与えています。北とは、新興のバビロン帝国です。アッシリヤに代わって当時の中東支配を実現させつつありました。25章3節にあるように、エレミヤは23年間にわたって、「主の言葉はわたしに臨み、わたしは倦むことなく語り聞かせたのに、お前たちは従わなかった」(3) と言っています。新興バビ口ンの王ネブカドレツァルに神の働きを読み取りました。この王が攻め入ってくることを「神の僕」というのは一見かなり乱暴な論理です。一面は「侵略」なのですから。しかし、この出来事を、「見よ、わたしはわたしの僕バビロンのネブカドレツァルに命じて……民を襲わせ、ことごとく滅び尽くさせる」(9) と言っています。歴史のなかでは、本当に大事なことを把握するのに、ある局面では、政治勢力の一つが、「神の僕」である役割を担うことがあり得るのだ、とは、「聖書が語る歴史に於ける神の働き」を意味しています。人間虐殺の罪の意識をもたない日本にとって、中国や韓国が日本の「歴史認識」について「神の僕」であり得ることを感じます。エレミヤは決して政治的にバビロンの味方だったのではなく、バビロンもやがて神の裁きの許、滅びることを知った上で「神の僕ネブカドレツァル」と言っているのです。


エレミヤ書 25章1節-7節
ユダの王、ヨシヤの子ヨヤキムの第4年に、ユダの民すべてについてエレミヤに臨んだ言葉。その年はバビロンの王ネブカドレツァルの第一年に当たっていた。預言者エレミヤは、ユダの民とエルサレムの住民すべてに次のように語った。
「ユダの王、アモンの子ヨシヤの第十三年から今日に至るまで二十三年の間、主の言葉はわたしに臨み、わたしは倦むことなく語り聞かせたのに、お前たちは従わなかった。主は僕である預言者たちを倦むことなく遣わしたのに、お前たちは耳を傾けず、従わなかった。彼らは言った。『たち帰って、悪の道と悪事を捨てよ。そうすれば、主がお前たちと先祖に与えられた地に、とこしえからとこしえまで住むことができる。他の神々に従って行くな。彼らに仕え、ひれ伏してはならない。お前たちの手が造った物でわたしを怒(いか)らせるならば、わたしはお前たちに災いをくだす。しかし、お前たちはわたしに従わなかった、と主は言われる。お前たちは自分の手で造った物を持って、わたしを怒らせ、災いを招いた。』