1974年1月20日 岩国教会週報
「先週説教より」マタイ5:3-12、ペテロ第二3:13
(岩国教会牧師8年目、健作さん40歳)
「山上の説教」の8つの祝福のうち、マタイ5章3−6節の前半4つは、人間の深い苦悩に関わっている。それは個々人の苦しみの底に渦巻く社会全体の苦しみ、さらに時代から時代へと、人々によって担わされてきている歴史の苦しみを表している。現在の私たちは外からやってきた石油危機なる事態に直面し、世相は暗い。貧しい者、権力なき者(5節の「柔和な人」は権力なき者の意である)、ただでさえ人の世の悲しさを味わっている者たちは、将来の日々の生活に不安を抱き、一層の苦しみを負う。しかし、その中でイエスは、貧しさのゆえに心まで閉ざされてしまった人間と共におられるのではなく、内なる態度が父なる神に支えられる以外に拠り所がないことを知って自らの心(霊)の貧しさに深く目覚めた人間と共におられる。それゆえにイエスは「こころの貧しい人たち」「悲しんでいる人たち」「柔和な人たち」「義に飢えかわいている人たち」(マタイ5:3-6)こそ「さいわい」であると宣言する。「さいわい」とは救いの意味であり、神との交わりが与えられていることを言う。
マタイが用いる「義」(6節)はマタイ独特の用語である。「義」は旧約以来叫ばれ続けてきた「社会の公平と正義」を示しているし、神によってのみそれは実現するという約束の待望のうちにあるものであった。しかし、マタイが強調するのは、その「義に飢えかわき」行動することの大切さである。もとより義は我々のうちにはない。しかし、世の悲しみの中でそれを求め、実現のために身を懸けていくことを勧めている。神にのみ結果を委ねるところまで煮詰めた行動を選んで生きるなら、きっと「飽き足りるようになる」(6節)「さいわい」を味わえるであろう。
(1974年1月13日 岩国教会 岩井健作)


