1972年3月26日 岩国教会週報
「先週説教より」ヨハネ8:1-11
「こういう女を石で打ち殺せと命じましたが…」(5節)「…罪のない者がまずこの女に石を」(7節)
姦淫の女を捕らえた律法学者たちやパリサイ人たちは、すぐれた職業の人である。仕事の目的・方向において冷静であり、使命に対して情熱もあり、見識もある。だが彼らは、ひとりの女を前にして「こういう女たち」(原文・複数形)と言った。このような物の見方が、我々のうちにも染み込んでいることがないだろうか。ひとりの人を前にして"こういう患者たち、学生たち、生徒たち、社員たち…"等々と、ひとを見てはいないだろうか。一人ひとりの個有なもの、それだけに扱いにくいもの、それに触れることを避けてはいないか。イエスは、ひとりの女を性質や状態一般で捉えようとする彼らに対して、「この女」と一人の人としての重みを指し示す。そして、ひとりの人の魂の内奥に触れることによって、律法からの解放を彼らに体験させた。イエスにおいて、女も、彼らも、共に新しい歩みに生かされている。小説『レ・ミゼラブル』のなかの刑事ジャヴェールは、自分の追っていた徒刑囚ジャン・ヴァルジャンの心に触れることで、彼の唯一の尺度であった法から解放された人間となった。一人の人間のありようが、とどのつまり人間を一般論であしらっていくあり方を問い、それを破り、変えていくところに、福音の生きた事実をみる。
西中国教区社会事業団の身障者自活アパートである「亀の里」は、入居者に合わせて改装をすすめているときく。人ひとりのありようから、何かをしようとする、心あたたまる話だ。
(1972年3月19日 岩国教会 岩井健作)

