『私家版 人物事典』への幻(1990 神戸教會々報 ㊶)

神戸教會々報 No.129 所収、1990.12.23

(神戸教会牧師 健作さん57歳)

そこでイエスは彼らに尋ねられた、「それでは、あなたがたはわたしをだれと言うか」 マルコ 8:29


 一つの時代は、様々な人物の織りなす綾だともいえる。

 人物を通して”時代”をふりかえるという試みのもと『現代日本・朝日人物事典』(朝日新聞社 1990)が刊行された。1926年、「昭和」時代の開始以降活動した人物を対象に11000人が収録されている。現代史の表舞台で業績を残した人ばかりではなく、目立たない分野で活動した人、事件の証人なども入っており、またその人物の人柄や人々に与えた影響をも含まれていて、読みものとしても仲々面白い。たまたま開いたページを見ると、例えば「明石家さんま、1955.7.1〜 和歌山県生れ。……史上最も東京的な関西お笑いタレント……夫人は女優の大竹しのぶ。……赤塚不二夫、1935.9.14〜 マンガ家。……ニャロメ、ベシなどのキャラクター、流行歌を次々と生み、60年代末から70年代にかけて時代を笑いと共に疾走していった。……」などとある。

 神戸教会の関係では、海老名弾正(歴代牧師)、小磯良平(歴代会員)、笠原芳光(元伝道師)、飛田雄一(両親現会員)、阿部志郎(義父母歴代会員)らの、それぞれの分野での働きが記されている。兵庫県生まれのキリスト者では、井上良雄、柏木哲夫、河上民雄、千石剛賢、原清らの名が見られ、教団現役牧師では、太田愛人、種谷俊一、平良修、中嶋正昭、平山照次、前島宗甫、吉田繁らの名を瞥見した。

 ページをあちこち繰っていると、この人が入っているからあの人もあるだろう、と思うとなかったりする。人物選定は編集者の最も苦労したところであろう。これは私の主観に過ぎないが、聖書学の荒井献に対して田川建三、反靖国運動の戸村政博に対して反天皇制の桑原重夫、重度知恵おくれの児童の福祉では糸井一雄に対して福井達雨といった関係で、後者の名がみられないのは、編集の視点にも関わりがあるような気がした。

 そもそも時代を織りなす人物群を一眸(いちぼう)におさめることなどは不可能である。ここに収録された人物は確固たる個性である。しかし、その周囲には「無名の」人物がいて影響を与えている。もし『私家版 現代人物事典』というものを各々が自分の生に即して作ったとするならば、数限りない『事典』が生み出されるに違いない。こんな想像を促す意味で、この事典は刺戟的ではあった。

 各人の『私家版 人物事典』に入れる人物の選定をしてみよう。父母兄弟、配偶者は入れておきたい。思い出の教師、幼なき日からの友人は入るだろうか。教会の信仰の友は、牧師は、職場の上司や同僚はどうか。年賀状の中からも選んでみてはどうか。書棚の中には影響を受けた人物もいるだろう。志を同じくして運動や趣味の中で出会った人も入れたくなるかも知れない。そうして、私にはこの人は入れておきたいと思う人がいる。「ナザレのイエス」だ。その生き方の激しさで、自分が問われることにおいて最も厳しい人である。その厳しさが、同時に、自分で自分の始末ができない部分を含めて、私という存在の肯定の根拠であるところに、その不可思議さがある。この人をどう書くかは、歴史的であるにせよ、信仰告白的であるにせよ、自分を語ることでもある。またそれは、自分との根源的関わりであるべき、他者としての「神」を語り、告白することでもある。恐らく『私家版 人物事典』は絶えず改訂されねばならないであろう。死の床に至るまで、「イエスをだれというか」を書き改め続けることが私の課題だと思っている。

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