1973年4月8日 岩国教会週報
「先週説教より」ルカ10:30-34、ロマ5:7-8
《翌週週報欠落》
(岩国教会牧師8年目、健作さん39歳)
サマリヤ人が通りかかり、彼をみて気の毒に思い(ルカ10:33)
これは有名な「サマリヤ人のたとえ」の一節です。「気の毒に思う」という訳語のヘブル語は元々"内臓(心臓・肝臓・腸等)"の意味です。昔の人は内臓を"深い感情の座"と考えていたので、"内臓"という語は最も強く深い感情・同情を示す語彙として用いられるようになったと云います。そういえば、日本語でも"腹(はら)"という語彙は"心(こころ)"を示し、「腹を割って話す」「腹が立つ」「腹が座る」などと云います。さて、この語彙はイエスがらい病人に対するあわれみ、盲人に対するあわれみ、ナインのやもめの息子の死に対するあわれみ(マルコ1:41、マタイ20:34、ルカ7:13)に用いられています。イエス自身の感情を示す語が少ない中で、この語が語りつがれ、福音書の中に残ったのは、よほど弟子たちに感動深かったに違いない。しかも当時の哲学などでは、感情を殺し超越することが完成した人間に向かうことだと考えられていた時、「あわれみ」という語で「救い」を語っている聖書の意義は大きい。
本筋の「サマリヤ人のたとえ」に戻ると、この物語では強盗に傷つけられた旅人を横目で見て見ぬふり、手を貸さず助けないのがいわば人間というものの現実だとするなら、サマリヤ人が彼を介抱し助けるのは神の愛の現実だと云われます。問題は、その神の愛と救いの現実が、サマリヤ人を通して語られていることである。サマリヤ人はユダヤ人から差別され、心に深い傷を持つ人である。こういう傷は、差別する側には絶対わからない。(水俣病や森永ヒ素ミルク事件を考えてみれば分かる)。その傷を持つ心があればこそサマリヤ人は「気の毒に思った」のである。神の愛がイエスの十字架の傷を通して表されている真理がここにある。「その打たれた傷によって、われわれはいやされた」(イザヤ53:5)(「そのうたれし傷によりていやされた」)とあるように、傷を持つ者が、イエスの傷にふれていやされる。傷は傷として耐え、持ちこたえるところにこそ、救いがあり、交わりがあるであろう。
(1973年4月1日 岩国教会 岩井健作)


