連帯を破壊するものへの抵抗(前半)(1971 同志社)

1971年4月21日「チャペルアワー月報」掲載、同志社大学宗教部発行
1970年12月9日開催 同志社大チャペルアワー座談会記録

(岩国教会牧師6年、健作さん37歳)

 二つの問題が、今日のわたしの話には求められていると思います。一つは、岩国という地に住んでいて、岩国の米軍基地の問題をどのように自分の意識に捉えているかということ。二つ目は、岩国という街のキリスト教会の牧師という立場にあって、キリスト教信仰を持ち、反戦反軍の運動にかかわるということはどういう意味を持つのか、ということです。

 一つの市や町に米軍基地があるということは、どういう問題を持つものなのでしょうか。岩国に米軍基地があるというのは周知の事柄です。岩国に基地ができたのは、昭和13年でした。それは敗戦後、さらに数百万平方キロメートルが拡張され、559万平方キロメートルとなった。この事実を見ますと、日本では戦争が終わったのではなくて、着々と戦争の準備が重ねられていたということがわかります。基地の家主は変わったが、極東戦略の位置は変わっていない。この基地が重要な役割を果たしたのは、1950年の朝鮮戦争の時でした。そこから毎日のように重爆撃機が朝鮮半島の38度戦に向けて出撃したわけです。

 現在では、海兵隊の航空師団がおりまして、これは米軍の第7艦隊に属しています。上陸作戦をやれば世界最強と言われている部隊です。朝鮮半島で事が起きれば、これが出て行って上陸作戦を開始するのです。それから、海軍の第6飛行部隊がおり、哨戒連絡、機雷の爆破を行うわけです。軍用飛行機の離陸回数は、以前の資料ですが、月4千回、昼夜区別なく10分間に1機が飛び立つ。現在はもっとひどい。今のところ夜間は飛び立ちませんから、昼間3分間に1機が飛び立っている状態です。その騒音は大変なものです。兵力は5500〜7000人の間です。

 基地のもたらす被害は、飛行機の墜落、模擬爆弾の誤投下、騒音等々です。特に基地周辺の地域は、騒音の被害が多く、テレビ・ラジオ・電話をまともに使用できない。帝人の子会社は他の地に工場を移転した。またその地域の小学校では授業が不可能になった。こういうことが起こりますと、岩国市の市政の在り方が、国家に対する補償要求という形になってきます。木造の小学校の建物が、防衛庁予算で鉄筋防音装置・冷暖房付きの建物に代わる。また本来工場から市に入る税金相当の基地交付金を市が要求し、結果的に与えらえることになった。基地反対のデモは、結果的にこの交付金要求の形となるのです。だから革新団体が全体として市政の中に丸抱えとなっているような奇妙な姿をとるわけです。

 基地が岩国市にあるということは、岩国市の利害に関係する事態を招くことになった。これではどんなに運動してもダメになる。しかし、ベトナムの人々から見れば、岩国は自分たちを爆撃にくる基地のある街として映るわけです。朝鮮の人から見てもそういうことになる。ですから、安保条約の下で岩国が基地と共に生きているということが、その戦略体制を支えることに加担していることを意味するわけです。爆撃を受ける人々からすれば、岩国の市民は加害者として敵として映るわけです。基地があるだけで、我々がベトナムや朝鮮の人たちに対して加害者の立場に立っているという自覚で捉えなかったならば、基地の存在を本当に見ることにはならないと思います。

 1967年(昭和42)に、私どもが属しております日本基督教団が、第二次大戦下における「戦争責任告白」(「第二次大戦下における日本基督教団の責任についての告白」1967)を出しました。第二次大戦(太平洋戦争)が侵略戦争であることに気づくことなく協力したという事実に対する反省です。しかしそれは、過去の戦争加担に対する懺悔と共に今日における戦争加担の方向における加害者性に対する闘いを同時に含めたものであるはずなのです。これは、日本のキリスト教会の方向性として、今日、明白に打ち出してきているものです。この点からしても、岩国に住むキリスト者は、基地があることを仕方のないこととして見ることは許されないのです。

 しかし、基地の加害者性という問題はどういうことなのか。具体的にどういうことを意味するのか。私は今まで、基地は米軍がいる施設のようなものと考えていました。GIを軍用機と同様に見てきたのです。ところが、単なる「ヤンキー、ゴーホーム」では済まない問題が起こってきたわけです。1969年の秋に、ベトナムから数千人のGIが岩国に引きあげてきました。兵力の増強に備える必要性と、ワンクッションをおいて、少々やわらげてから、兵隊をアメリカに帰すということがあるからでしょう。多いときは、岩国に6000名のGIが滞留したのですが、彼らはベトナムの前線兵士であるわけです。

 海兵隊は、志願兵とならず者のような兵士が多い。戦場では、前方からだけでなく、後方の士官たちから弾が飛んでくる。本当の敵はベトナム人ではなく、軍隊で飯を食ってきた士官たちであることに、彼らの意識ある者は気づいたわけです。厭世観に駆られて、彼らは戦場から岩国基地に戻ってきた。

 休暇が与えられ、日本人たちと触れ合っていく中で、日本人が戦争や基地があることを願っていないということを知ると共に、べ平連の人たちなどと話したりして、彼らは「ベトナム戦争とは一体何なのか?」について考えるようになっていった。1969年の秋から、危険を冒して彼らの集会をもち、彼らの権利の要求の運動を始めたのです。本国のアメリカ兵士組合の本部と個々人が連絡を取り合って、情報を交換していくうち、その組合が兵士の10項目の権利要求の運動をやっていることが次第に皆に広まっていった。1970年の春、ついにベトナム戦争と軍隊の制度に対する反対運動、つまり反戦と叛(はん)軍の運動を始めるようになったわけです。反戦の新聞を発行し、日本人のわれわれが、彼らに代わって配り手渡すわけです。基地当局は、反戦兵士を配属転換等の手段で弾圧する。でも次から次へと広まっていく。最近では軍の記念日に喪章をつけて、戦死した兵を弔うため、基地の中を勇気ある兵士たちが行進する大胆な行動をとるようになりました。もちろん、その結果、営倉に投げ込まれるわけです。

 ここで次のようなことが言えるでしょう。軍隊という秩序の価値観で縛られてしまっているところから、もっと根源的な人間としての当たり前の自覚に目覚めてきたということです。人間である当たり前の事実は、彼らにとって、反戦という感覚であるわけです。既成の秩序の相対化という感覚です。

 ところで、基地に張り巡らされている金網とは何でしょうか。これはアメリカ兵たちを取り囲んでいるのではなくて、日本を囲んでいるのです。なぜなら、われわれ日本人はその中に入れないのですが、兵士たちは出たり入ったりできるからです。この金網は基地を保護しているのではなくて、日本を囲む安保条約の象徴であることが、やっと最近わかってきました。ですから、われわれが連帯できるのは、その出入りする兵士たちです。金網は、われわれのみならず、戦場に追いやられる彼らGIにとっても疎外の現実であるわけです。つまり金網はベトナムに向けて我々と彼らを包囲しているのです。彼らとの連帯の印を、VサインではなくP(平和)サインで示し合う。私たちが、金網の外からPサインを送ると、基地の中の兵士たちも、そのサインを送り返します。また、このサインが基地のあちらこちらに落書きされ、しまいにはジェット機にまで誰かが落書きしている。こういう状態が見られるわけです。

 今年(1970年)の5月にアメリカ兵士組合の岩国支部が出したメッセージには次のように書かれています。「われわれ岩国支部は、日本の反戦闘争を担っておられる全ての兄弟たちに親愛なる連帯の挨拶を送ります。あなた方の支援でわれわれ反戦兵士のレジスタンスは、日々強くなり、そしてわれわれもその一翼であることを誇りに思っております。われわれの機関誌は岩国基地の兵士によく読まれており、この機関誌は、われわれが本気であり、われわれのレジスタンスがここまできたぞという大胆さを具体的に示しております。この大胆さは、彼らの弾圧や脅迫にもかかわらず、次のことを同時に示しています。つまり彼らは革命家を投獄できても、革命自体を投獄することは不可能であるということである…」と。このように岩国の基地での反戦兵士たちの意識が高まってきているわけです。

続きます


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