「民主主義を生かすもの −『一つ心になって』ピリピ人への手紙1:27」
「月刊キリスト」1967年6月号 p.22-25(日本基督教協議会文書事業部)
(岩国教会牧師3年目、健作さん33歳、教団戦責告白から3ヶ月)
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「日本軍熱河にて攻撃開始。三月、国際連盟脱退を通告。四月京大滝川事件、皇道会結成。八月労働総同盟、罷業統制規約決定」(毎日新聞・世界の歴史年表、1933年)
これはぼくが生まれた年の日本の様子です。だから、ぼくが民主主義ということばを聞いたのは、戦後、新憲法が発布されて、街々にこのことばがあふれだしてからでした。新潟県の黒姫山の近くのある寺で、集団疎開児であったぼくは、すでに多くの人たちによって綴られた疎開学童体験記の例にもれず、しらみとり、食糧不足、集団生活における子供どうしの相克、土地の子供たちからのよけい者扱いといった閉ざされた状況で終戦を迎えました。敗戦といわず、わざわざ終戦といったのは、敗けたという実感よりも、とにもかくにも戦争というものが終わったのだという実感のほうが大きかったからです。戦争という大状況の重圧が終わって、ぼくなりの小さな閉ざされた状況からの解放が闘争に包まれた状況からの解放が終戦でした。ですから、民主主義ということばは、この解放感につながるものとしてぼくの中で定着してきたといえるでしょう。
ところが、いつの間にか民主主義は、既存の秩序を守る陳腐な形骸となってきました。手許に、「民主主義を守るために」という新聞社説(1965年10月7日 中国新聞)があります。日韓条約批准反対運動に向けられた分別くさい説教でありますが、民主主義とは「どのような場合でも暴力は否定されるべきであること、法と秩序はあくまでも守らるべきこと」と説かれ、デモを批判し、「意思表示はどこまでも民主主義的方法論(議会の多数による決定)」によるべきだと言っています。民主主義の形式論理が語られるうちは、まだよいとして、最近は、明治百年記念を機に、「風格ある社会」というオブラートに包んだ「日本的なるもの」の名目で、軍国主義的傾向がますます助長され、右翼の活動がその風潮の中で台頭していることは、学術会議の「学問・思想の自由委員会」(1967年4月19日)が報告しているところであります。
民主主義が虚妄なものとして無視されるということは、ぼくにとっては、素朴な意味で、戦争の重圧に引きもどされることであり、真の人間尊重に逆行することであります。ですから、山田宗睦(むつ)氏(評論家・哲学者)のように戦争体験をもった戦中派でなくとも、氏が声を大にして、戦後民主主義を否定する人々を告発し、明治百年にではなく、戦後二20年に、みずからをかけて生きる生き方に大いに共鳴するものであります。しかし、これは、日本の歴史の中に、民主主義を定位させる、いわば外側の仕事であって、これと同時に、民主主義という人間解放の遺産をその本来の意図によって生かす内側の営みがなされなくてはならないと思います。
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A・D・リンゼイ『民主主義の本質』(未来社 1964)によると、近代民主主義の源流は、17世紀イギリスにおけるピューリタニズムに求められ、それは、そもそも政治の理論であるよりも、非政治的共同社会のいわば生活様式(way of life)としてとらえられています。そして民主主義の条件として欠くことのできない重要なものは、一般によく考えられている「同意(consent)」ではなくて、なによりもまず「討論(discussion)」だというのです。見解の一致がたいせつなのではなくて、それぞれ異なった見解を理解し合うことによって、共同目的の発見のためにひとびとが互いに貢献し参与することが重要なのだといいます。そこでは共同志向だとか、つどいの意義が重要であり、意思の形成主体を作り出す自発的な運動態として民主主義がとらえられています。少なくとも単なる政治的形式でないことは確かです。そしてリンゼイは、ピューリタンの源流を、キリスト教的集会のうちで養われた経験においています。
ここでいわれているように、「意思の形成主体を作り出す自発的運動態」として民主主義をとらえることは、民主主義の内容を作り出す課題であります。ぼくたちの周囲では、民主主義を、人間性をはばむものに対して人権を守るものとして定位させることと同時に、この内容を身につけることがどれほどできているでしょうか。
たとえば、都知事選で美濃部さんを応援した学者グループの中野好夫氏は「こんどの……票は決して社会党や共産党だけの票ではない。もともと保守党支持の人でも美濃部さんを支持した人がたくさんいるはずです。それを両党は十分考えて政党エゴイズムを抑制することがたいせつだ……」と語っていますし、成田社会党書記長もきびしい表情で、労働組合は革新都知事に甘えてはいけない、また社会党についても「この選挙を通じて党は体質を根本的に改めねばならないことを痛感した」(以上4月18日 朝日新聞)と語っています。このことは逆にいうと、政党や組合のエゴイズムがいつ出てくるかわからない危険を示しています。そして、その背後には民主主義を、たてまえとしては、人権を守るとりでとしながら、その内容を身につけていない無数の下部集団があり、それがわたしたちの身のまわりの現実でもあります。最も自発的共同体であるべき教会においてすら、共同志向やつどいの意識の訓練がいかに不十分であるかは、ぼくなど日ごろ、キリスト教の内部にいて、身にしみて味わっています。しかし、ぼくは、教会が、日本のこのような状況の中で、民主主義を生かす、内容作りの拠点であるべきだ、と思っています。民主主義を守る外側の拠点は、政党であり組合であり、平和、社会、教育、婦人といった諸運動でありますが、それと重なり合いつつ、キリスト者とか教会は、背後に固有な使命を秘めているかぎりにおいて、本来の姿を示しうるものだと思います。
(続きます)
(岩国教会牧師 岩井健作)


